2011年10月10日月曜日

市民の司法

 小沢裁判が始まった。既にマスコミ各社の報道があるので詳細は省くが、戦後政治の「政治と金」にまつわる本流末裔の裁判だけに来年4月の結審が待たれる。

 ところで一連の報道のなかで検察の発言に看過できないものがあった。「我々の手を離れた事件。審議内容で影響を受けることは一切ない」「我々は証拠上、有罪の確信がなければ起訴しない。仮に(今回の裁判で)有罪になっても起訴すべきだったとは思わない」という東京特捜幹部や検察首脳の発言だ。
今回の裁判は、平成21年に導入された検察が不起訴としても検察審査会が2度続けて「起訴すべし」と議決すれば必ず裁判にかける制度の適用を受けて実現した裁判で、現在の検察システムからこぼれ落ちた部分をカバーするいわば制度の不備を補うものであるにもかかわらず、検察幹部にはその自覚が欠けている。
更に上記「我々は証拠上、有罪の確信がなければ起訴しない。…」という発言は、有罪率99.9%が示す「検察の越権行為」―疑わしい、社会的に断罪さるべき事案を裁判所が判断する前に検察がフルイにかけている―に対する一般市民の検察批判を全く無視している。

 我国は「罪刑法定主義」を採っている。これは法律で犯罪と定められた以外の反社会的行為は処罰できない制度である。ところが現実社会の変化は急激極まるから法律がその変化に追いついていないのが現状だ。とりわけ金融や情報の分野でその傾向が著しく犯罪行為を犯しても見過されたり「別件」で逮捕して本来受けるべき処罰よりはるかに低い刑で済まされている例が多い。こうした弊害を取り除くには疑わしい反社会的行為を司法の場で審議する機会を重ね早く法令化に導くこと望ましいのだが、「有罪率99.9%」の現在の検察のあり方がそれを妨げている。
 
 我国の司法は長いあいだ「狭い専門家集団」の専権事項であった。その為の歪みや暗部が許容範囲を超えてきたために打ち出された施策が「裁判員制度」であり「取調べの可視化」である。更に加えて裁判の場が社会の変化を迅速に反映する場になればより「市民の司法」に近づくことになろう。

 小沢裁判がその一里塚になることを願う。

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