2011年3月7日月曜日

旅の絵本

 「ドミニク・ヴィス/武満徹を歌う」の流れる中で「大岡信の現代詩」を読む。疲れてくると安野光雅の「旅の絵本」を開く、ちょっと上等のウィスキーを嘗めながら。不思議な安らぎの安野ワールド。

 その安野光雅のことば。「絵を見るとき、題名を先に見て、絵の意図を読み取ろうとする人がある。題名を変えても絵の価値が変るということはない。/文字は説明的な意味を持っているが、絵は説明ではない。詩もちがう気がする。言葉で書くほかないが、その言葉の説明的な意味から逃れようとしているように見える。」(日経・私の履歴書から)

 武満徹と大江健三郎は「オペラをつくる」で次のように語り合っている。
絵画をみる場合は受身で見るけれども、音楽を聴く場合は、能動的に聴くというのも、本当にそうなのだと思います。(略)音楽を人間が生み出したのは、耳があるからではなく、喉があるからだという。(略)耳があるからということで人間が音楽をつくり出したのなら、自然の音を模倣するような音楽になっただろう、『田園交響曲』のような標題音楽からはじまっていったんだろう、という。ところが、人間が喉を使って歌をつくることから音楽が生じているという。
 文字言語の言葉というものでは言い表せない感情、言葉をいくら補っても言葉では補えないものを音楽、歌にしようというふうに考えています。/言葉の起源は歌なので、歌うということを検証したときに言葉が出てくる。言葉の後に歌がくるのではなく、歌というものは常にあって、それがいろいろな歌のかたちとして、言葉として顕れてくる。それは小説であったり、また、詩や戯曲であったりする。
 ヴェルディは音楽の力によってシェークスピアよりも少ない言葉で同じことを達成していると思います。逆にいうと、シェークスピアが達成したようなものを小説家が達成しようと思ったら、シェークスピアの10倍の言葉が必要だと思います。

 三人が言っているのは『音楽や絵画、詩の優越性』と『言葉の不完全性』である。だから我々は言葉を注意深く使わなければならないし、言葉の重みを知らなければならない。
 「満目(まんもく) 生事を悲しむ」、今の政治状況は余りにも悲しい。

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