2011年6月20日月曜日

想 滴滴

 「自ら笑う/狂夫 老いて更に狂するを―杜甫(狂夫より)」(もともと勝手気儘な自分が、年をとってますます気ままになってきたと、我ながらおかしく思う)。

 杜甫のこの漢詩に接したとき、男というものは古今を問わず晩年に差し掛かると同じような感懐を抱くものなのだと、彼我の隔絶する才に忸怩としながらも内心の苦笑を禁じえなかった。しかしよくよく考えてみると「勝手気まま」に生きるということはなかなか難しい。自分では気ままな積りでもどこかで他人の真似をしていることが多いし、往々にしてお金に縛られている。そこへいくと友人K君などは定年になってから、これまでの人生でやりたかったことや定年を期してやりたいこと100以上をこれからの人生でやり遂げようとしている立派な「勝手気まま人」である。独創性や創造性は自由な身になってからこそ大切な素質かも知れない。

 「難波人/葦火(あしび)焚(た)く屋の煤(す)してあれど/己が妻こそ常(とこ)めづらしき―万葉集・作者不詳」。難波の人が葦火を焚くので家が煤(すす)けるが、おれの妻もそのように古びている。けれどおれの妻はいつまで経っても見飽きない。おれの妻はやはりいつまでも一番いい、と詠っている。若い者の恋愛とちがって落ち着いたうちに無限の愛情をたたえている(読解と概説は斉藤茂吉による)。
 茂吉のいうように確かに年配の夫婦にしかないしみじみとした愛情の感じられる歌にちがいないが、「万葉人でも奥さんにお上手を言っていたんだ!」という諧謔を感じさせる新鮮な一面もある。それにしても「常めづらしき」という表現はいい。「めづらし」という古語には「見慣れないので、新鮮に感じられて心をひかれる」という意味があるがそれに「常(とこ)」を接けることで、長い人生を共にしてきた夫婦こその愛情がにじみでてくる。

 今年の年賀状に「興の趣くままに但し則を越えずに、が古稀の意味だそうです。その通りの人生で敬服致します」と書いてくれた先輩がおられた。このコラムを評価していただいたようで嬉しかった。励みにしてこれからも永くつづけていきたい。

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