2018年9月3日月曜日

老いの棲家

 常連だったFさんが亡くなった。弟さんがわざわざ報せに来てくださったのはそれだけFさんがこの喫茶店を心に留めていたからだろう。四国の老人ホームへ行ってからも月に何回か女店主に電話してきていたという、耳が極端に聞き難くなっていたFさんはこっちの云うことを無視して云いたいことだけを云って電話を切るという一方通行の電話だったらしい。
 Fさんと親しくなったのは彼が私が西陣にいた頃の隣の学区の出身だということが分かってからで、千本のあそこの蕎麦が旨かったとか映画館が十軒ほどあったとか話題が合って会話が弾んだ。「終戦後スグに、チンチン電車が堀川へ脱線したの覚えたはりますか」という問いに、「ワシ、そのとき堀川の派出所の臨時警官してたから苦労したで」とFさんが答えたのには驚かされた。チンチン電車というのは明治初頭の京都近代化事業の一つとして敷設された北野神社から京都駅までの市電北野線のことで中立売通(東西)から堀川通(南北)へ九十度転回するときに堀川の鉄橋を渡らなければならない設計になっていた。乗っていると足下で車輪と軌道がキシンで「キーキー」と悲鳴を上げるような音を上げるのが怖かったものだ。終戦直後、酔っ払った進駐軍の兵士が運転してスピードオーバーで曲がり切れずに堀川に脱線するという事件があり大騒動になった。死者も何人か出たその事故の収拾にFさんが関係していたというのだから驚いたのだが、「臨時警官」という職務に戦後の混乱がうかがえる。
 そんなFさんが三年ほど前、急に四国へ転居することになった。娘さんの嫁ぎ先が四国で、娘さん宅近くの老人ホームに彼ら夫婦で入所するという。九十才を超えてからの転居は彼の望むところではなかったが、四五年前奥さんがケガをしてから足腰が悪くなり食べることからなにやかやと面倒を見なければならなくなっていたことから不承不承娘さんの申出に同意したようだ。高齢にもかかわらず自転車で買い物も医者通いもこなし、市の敬老パスで祭りやグルメを楽しんでいたから自由を奪われるにちがいない老人ホーム暮らしは本当にイヤだったと思う。シャイで湿っぽいことの嫌いだったFさんは送別会を開く暇もないままに四国へいってしまった。
 行ってしばらく頻繁に喫茶店に電話してきたのは環境の変化に馴染めず寂しかったにちがいない。それでも人づきあいの上手なFさんは間もなくホームに馴れたがこちらに居たときのように気ままに外出することは叶わず、なじみの店もないから出歩くことがなくなり、半年足らずで車椅子のお世話になるようになった。それから二年ほどで亡くなってしまった。
 
 常連さんでもうひとり、Nさんにも親しくしてもらった。初対面のとき「お勤めは…」と訊ねられて「若い頃は広告会社にいました」と答えると「D通ですか、H堂のような会社ですか?」と重ねられて「H堂です」と答えると、ホーッというような表情で親しみを込めた様子に変わった。豪放磊落でちょっと上から目線に誤解をされるもの言いのせいで芯から馴染める相客のいなかったNさんと昵懇になったのは、ふたり共女主人のことを「Y子さん」と名前で呼ぶことも影響したかも知れない。ママさんと呼ぶには余りに水商売ズレしていない彼女にどう呼びかけていいか躊躇っていたのだが、「Y子さん」がスンナリとはまって、以来Y子さんで通してきたがNさんもY子さん派でママさんとは呼んでいなかった。
 Nさんは左京の高級住宅街でお屋敷の御曹司として生まれ京大農学部を出てI商事へ入社。中国で相当大きな事業を展開した後、行政や民間企業相手に経済コンサルタントとして活躍した。かなりやんちゃで我儘な生活ぶりだったようで家族は苦労されたようだ。彼の奥さんがH堂の中興の祖と呼ばれた社長と縁続きの方で、それもあって仲良くしていただいた面もあったのだが、晩年は民間アパートの閑居でひとり住まいのまま孤独死であった。
 
 FさんもNさんも尊敬できる先輩であったが人生の終え方は決して満足のいくものでなかったのではないか。Fさんはあのまま桂に住まって自転車で、敬老パスで好き勝ってを決め込んでいたら今でも矍鑠としていたにちがいない。兎に角好奇心旺盛でまめに動き回っていた、台所仕事も掃除洗濯も苦にするところがなかった。九十才を超えてから同様な生活ぶりが行えたかどうかは分からないが、ホームへ入って外出が思うにまかせなくなって運動不足で足腰が衰えたのは明らかだ。グルメのFさんが食の愉しみを奪われたことも生きる気力を萎えさせたかもしれない。
 Nさんは晩年家族関係が破綻して独居を余儀なくされ経済的にも恵まれなかった。アパートで転倒して骨折したとき、助けを求められ住まいの様子を窺ったが不如意なたたづまいだった。結局そのまま快癒せず逝ってしまったわけだが「老いの弱さ」をさらすのをためらったダンディズムがかえってわざわいを招いたのは皮肉としかいい様がない。
 
 齢だからといって仕事を奪ったり、住み慣れた家を移ったりすることが「老い」にとって過分な負担になることを若いうちは理解できない。叔父が晩年、広い家の六畳の部屋だけで生活し、堀コタツに座ったままで手の届く範囲に生活用品を配置していたのを思い出すと、家の景色、部屋のたたづまい、亡き人生きている人とのつながり、そんなものすべてが記憶のパッチワークのようになって老人は「生き」ているのにちがいない。最低の経済的基盤は不可欠だが「地つづき、意識つづき」の「継続した生」の断絶が老いにとって最大の危険因子なのだということを知ってほしい。
 
 コミュニティで認められること、老いても他人とのつながりが実感できること、そして大きな声でしゃべること。これが長生きの秘訣。喫茶店T・Bが常連の女性たちの命を永らえていることはまちがいない。
 

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