2018年8月27日月曜日

人生というステージ

 第100回の全国高校野球選手権大会(全国高等学校野球選手権記念大会)は史上初の2度目の春夏連覇という偉業を達成した優勝校の大阪桐蔭よりも、敗れた準優勝校金足農高フィーバーが大きすぎて優勝校の栄誉がかすんでしまった。それほど金足農(秋田県立金足農業高等学校)の戦いぶりは鮮烈であった。準々決勝で地元(滋賀は京滋と称されるように準地元という意識がある)の近江が劇的な9回裏ツーラン・スクイズで敗れたときにも「これでいいのだ…」とどこかで思っている自分がいた。そしてなぜか2013年ひいきの巨人が楽天に敗れたときの日本シリーズを思っていた。球団創設以来9年間茨の道を歩んできた楽天イーグルスが、2011年「3.11東北大震災」の復興にあえいでいたこの時期に東北唯一のホームチーム楽天が日本一になることは「東北の人たち」にとってこの上ない「はげみ―希望」になる、「今年だけは勝たなくていい」そう思ってみていたこの年の「日本シリーズ」だった。
 1回戦から700球を超えて投げ続けていた金足農の吉田輝星投手に決勝を投げきるだけの余力はなく、完膚なきまでに打ちのめした大阪桐蔭は立派だった。その勝利は偉業であるにもかかわらずなぜ金足農のまえに色褪せてしまったのか。
 
 私の好きなテレビ番組にMBS毎日放送の「学校へ行こッ!」がある。関西のお笑いタレントたむらけんじが関西の高校の特色あるクラブ活動や校風をルポする番組で、今の若者の生き生きした学校生活を通じて安心を得、彼らを応援していこうという希望を与えてくれる。100回を超える放送をはじめから見ていて最近感じるのは、高校がふたつに分かれていることだ。当然のことだが進学を主とした普通校と職業教育を目指す「専門高校」のふたつである。そしてここ一二年の画面から伝わってくるのは「専門高校」生たちの明るさだ。少し前に放送された私立進学校の生徒たちへの「この夏休みにしたいこと」というアンケートに「花火をしたい」と答えた女生徒や年間の学業休みが正月の三ケ日しかなく、受験勉強に専念して恋愛も受験以外の読書も志望校合格までは「禁止」という学校生活に黙々と従っている彼らに「可哀そう」と思うと同時になぜか「うしろめたさ」も感じていた。一方で、専門高校―たとえば金足農とおなじ農業高校の生徒たちの米作や酪農に対する熱い思いをもって着々と人生へ踏み出していこうとしている「笑顔」に、逞しさと確かな希望を感じる。
 「いい学校」へいって「いい会社」に就職して、という熱情に衝き動かされて「単線」の人生コースに誰もが邁進してきた「戦後70年」。「いい学校」は必然的に就職に有利な「国公立」や「有名私立」への入学が「勲章」となり「学校の序列化」をもたらし、「広域学区制」は公立校の「地域性」を『脱色』して生徒たちを地域から「浮き上がらせる」もとになってしまっている。私立のスポーツ部は全国的なスカウト活動で「プロ化」が当然として「おとな達」に受け入れられている。こんなことではいけない、という危機感はおとな達にもあるのだが、将来を考えたらできるだけ子どもに「不利」な条件を与えたくない、との思いから「これまで通り」の「安全コース」へ子どもを導いている。そんなおとなの考えを子どもに押し付けている「負い目」をおとな達はどこかに抱いている。
 金足農の大健闘はこうしたおとな達のこころの底に潜む「負い目」や「罪悪感」を見事に『解放』してくれた。「農業専門高校」で「地域密着」した高校で、選手たちは幼いころから共に戦ってきた「仲間」たちだ。しかも金足農は就農率が90%を超えるという。今の学校制度の「歪み」をすべて「引き受けた」高校が見事に「準優勝」してくれたのだ。「ガンバレ!」と応援したくなるのは当然で、嬉しい「金足農」の躍進だったのだ。
 
 ところで「専門高校」とはどんな存在なのだろうか。高等学校における職業教育を行う学校と位置づけられて、農業、工業、商業、水産、家庭、看護、情報、福祉などの職業に関する教育が行われている。平成29年5月現在約60万人の生徒が就学しておりこれは高等学校の生徒数全体の18.4%を占めている。専門高校は、有為な職業人を多数育成するとともに、望ましい勤労観・職業観の育成や豊かな感性や創造性を養う総合的な人間教育の場としても大きな役割を果たしています、と文科省のホームページに紹介してある。
 最も感性が柔軟性に富み鋭い高校という時期に、人間的な交わりも恋愛も「拒絶」して、先達の残してくれた「人類の遺産―古典」に接する好機も生かさずに、ひたすら「受験技能」の修得に全生活を賭けるような高校時代が果たして彼等彼女等の人生にとって「有意義」な結果をもたらすだろうか。
 それは、否、だろう。昨今の政治家や高級官僚たちの振舞いは「受験技能」のもたらす「否定的な側面」をいやというほど強烈に印象づけてしまった。また有名企業がぞくぞくと「不正会計」や「不正検査」の事実を暴かれている報道は、企業社会でも「受験技能」でトップ層を占めていたであろう経営上層部の人たちは社会人となってから、誤った判断を人倫に恥じることなく下してしまう「想像力」も「創造力」もない人間に成り果ててしまうことを教えている。
 
 この夏もうひとつ「一服の清涼剤」を与えてくれたのは「不明2歳児救出」の尾畑春夫さん78歳だった。彼は魚屋さんとして現役時代を終えた後、人生の後半期をボランティアとして貢献することに身を尽くしてきた。その経験が今回の救出劇に生かされ、300人体制の公的捜索活動の鼻を明かした。
 
 尾畑さんの生き方や金足農の躍進はこれまでの常識的な生き方に「反省」を促しているように感じる。「教育―仕事―引退」という3ステージで人生を区切る生き方を当然として受け入れてきたこれまで。しかし100歳までの生命が相当な確率で実現化してきた現在、「いい学校、いい会社」では人生は終わらない。残りの30年40年も人生設計に組み入れておかないと充実した生き方ができない時代を迎えている。残りの30年40年は社会的地位も企業社会での役職も意味を成さない「人間力」勝負のステージだし、当分はモデルがないから自分なりの新しい生き方をつくりだす「想像力」「創造力」が必要とされるステージになる。そのためには人生で最も吸収力の旺盛な「青春時代」をいかに過ごすかに成否がかかっている。
 
 「単線」の「3ステージ」の生き方から解放されて、多様でいくつものステージを生きていく人生を、今から模索していかなければならない。金足農と尾畑さんはそう教えてくれているように思う。
 
 
 
 

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