2018年8月13日月曜日

突け!と言われた善さん、やれ!と言われた学生A

 色川武大に『善人ハム』という短編がある。
 東京下町の肉屋の善さんは一平卒には珍しく「金鵄勲章」を下賜されていた。甲種合格の模範兵は数度の召集にもかかわらず、その度にかすり傷ひとつ負うことなく帰還してきた。そんな彼でも怖いものがあった。夢だ。
 善さんは、拳骨を二つ並べて差し出すようにし、それをさらに前方に突きだした。「こういう夢――」「それは、何?」「突け、っていわれたんですよ」彼はもう一度、両拳を突きだす格好をした。「それであたしは夢中で突いちまったんだ。馬鹿だから」(略)「当時のいいかたでいえば、支那兵ね」「兵隊じゃない。普通の人ですよ。お百姓だ」(略)「命令だったんでしょ」「ですが、自分で何をしているか、わからなかったんです。その瞬間まで」(略)「――ああ、自分の一生は、これで終わったな、そう思いました。やってしまった瞬間にね。へへへ、どういうわけかそう思っちゃった。自分はもう、何もできないな、って」「忘れようったら、善さん」「戦争は終わるからいいよ。わたしだって昨日のことは片づけたいよ。ですがね、夢を見ちゃうんだ。夢はいけません。ずいぶん長く戦場を渡り歩きましたがね。鉄砲の弾丸(たま)ひとつ、射ったことだって、いちいち夢を見る。あたしゃ忘れてるんだけど、身体はちっとも忘れてくれないんだから――」
 焼け野原から徐々に復興が進むなかで善さんはバラックのまま、店を再開しようとしなかった。見兼ねた周りの友人たちが世話してくれるその日限りの賃仕事――庭に穴を掘ったり、商品をリヤカーで運んだり、といった仕事で糊口をしのいだ。決して、前向きに、積極的に生きることはしなかった。自分の一生は終わった、自分はもう、何もできない、という思いから抜けだすことは十年経ってもできないでいた。
 
 日大アメフト部悪質タックル事件の青年のお詫び会見をテレビで見ながら善さんを思い出していた。「突け!」と言われた善さん。「やれ!」と言われた学生A。「ああ、自分の一生は、これで終わったな」と思った善さん。「もうアメフトはできない」と悔いた学生A。
 善さんは十年以上経って、五十歳を過ぎてからようやく結婚し自分の仕事を始める。
 学生Aは会見をこんなことばで締めくくった。「最後に、本件はたとえ監督やコーチに指示されたとしても、私自身がやらない」という判断ができずに、指示に従って反則行為をしてしまったことが原因であり、その結果、相手選手に卑劣な行為でケガを負わせてしまったことについて、退場になった後から今まで思い悩み、反省してきました。そして、真実を明らかにすることが償いの第一歩だとして、決意して、この陳述書を書きました。相手選手、そのご家族、関西学院大学アメリカンフットボール部はもちろん、私の行為によって大きなご迷惑をおかけした関係者のみなさまにあらためて深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした彼が立ち直るために何年の歳月が費やされるのだろうか。
 
 日大アメフト部の今年度(2018)のリーグ戦復帰は許されなかった。厳しい関東学連の判断だが致し方ない、日大が提出した再建案では再発防止は万全とは言えないのだから。何故なら、学生の主体的意思と参加が見えない再建案になっているのだ。
 
 一連のマスコミの論調はおしなべて「学生がかわいそう」「学生は関係ないのだから、命令されただけだから」というものだった。このことばの裏には「おとなが悪い」「責任はおとな達にあるのであって、子どもには、学生には関係ない」という意味がある。
 それはちがう!学生Aはこう言っているではないか。「本件はたとえ監督やコーチに指示されたとしても、私自身がやらない」という判断ができずに、指示に従って反則行為をしてしまったことが原因」だと。たとえ、それを許さない「独裁的」な組織であったとしても、まちがったことは「やらない」と言える社会に変えないといけない。「もうアメフトはできない」という悔悟のことばを二度と言わせない国に変えなければならない、という覚悟の滲む会見をした学生Aのことばが生かされていない。
 
 まわりのおとな達は、アマチュア・ボクシング連盟でも、東京医科大学でも、柔道連盟でも、女子アマレスリングでも、森友学園・加計学園問題でも、防衛省でも、選手のことを、学生のことを、国民のことを、蔑(ないがし)ろにして、自分たちの利益や立場を守ることしか考えていないではないか。広島や長崎の原爆被爆者を悼む平和記念式典で、国連核兵器禁止条約締結を願う市長の「平和宣言」に「被爆国・日本」の総理は不参加の「言い訳」も「お詫び」も一切しなかったではないか。
 こんなおとな達が「学生がかわいそうだ」と言って、本当に学生を守れるのか!
 
 学生は関係ない、では、もうすまない、我国は、日本は、また善さんに「ああ、自分の一生は、これで終わったな」と言わせてしまう国なのだ。学生が、こどもが、おとな達と一緒になって社会をつくっていく、そんな国に変えていかなければ、こどももおとなも「不幸」になってしまう。そんな国になってしまったことを覚悟する必要がある。
 
 こどもがかわいそう、学生がかわいそう、というのならおとな達はきちんと責任を果す覚悟をもたなければならない。軽軽に「こどもが、学生がかわいそう」と言ってはいけない!そう強く思う。
 

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