2018年8月6日月曜日

アメフト・ジャーナリズムは機能したか

 古くは全日本柔道連盟から女子レスリング、そして日大アメフト部、アマ・ボクシングとアマチュア・スポーツの不祥事が噴出している。柔道のパワハラ、セクハラ問題、女子レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部の悪質タックル問題とガバナンス問題、そして日本ボクシング連盟の不正疑惑(資金利用不正、用具の独占販売、パワハラ)などなどがマスコミやSNSに暴かれてきたが今日はそうした問題には踏み込まない。アマチュア・スポーツに関わるメディアやジャーナリズムのあり方について考えて見たい。
 
 日大アメフト部の悪質タックル問題に関していえば、記者の取材に答える内田監督の、悪質性と自分の指示を認める発言がテレビ画面の「音声」として公開されていた。ところが取材したアメフト担当記者は悪質タックルを指弾しなかった。彼ら専門家の知見と経験からすれば、今回の日大アメフト部の悪質タックルはまちがいなく被害者選手に「重篤な障害」を与えるにちがいない真に悪質極まる『事件』であり、被害が最小限度で収まったのは、被害者選手の偶然のタイミング(パスを失敗して「しまった!」と天を仰いで脱力した瞬間)と加害者選手の絶妙(教科書通りの膝裏への真背面から)の巧タックルの『僥倖』であって、少しでもタイミングがズレていたりタックルの技術が未熟でタックル部位がずれていたら取り返しのつかない『重大事件』になっていたにちがいない。アメフト担当記者はなにかを『忖度』して「悪質タックル」にまつわる「事件―障害を負わせることを意図したタックル」を報道しなかったが、一般のアメフトファンのSNSへ投稿した暴露動画によって『異常さ』が『共有』され、一挙に「社会問題化」した。多分投稿者は「アメフトの常識からは考えられないタックル」に警告を与える程度の気持ちで動画を載せたにちがいない。ところが日大アメフト部指導層の「虚偽」による「隠蔽」がマスコミの追求に火をつけ、その後の日大側の対応のまずさもあって、一アメフト部の事件から「日大のガナナンス」に対する『不信』、理事長以下の経営上層部の「不正」の糾弾にまで及ぶことになった。第三者委員会の「思いもかけない(真の第三者委員会らしい)」『正確な調査』によって、日本一の巨大高等教育機関――日大の経営層の刷新がないと治まらないところにまで問題は拡大している。
 しかしもし、こうした事件の展開がなかったとしたら、日大はつぎつぎと新たなターゲットに「悪質タックル」を繰り返し、あたら有為の若者の人生を葬りさっていたにちがいない。
 
 何故件(くだん)のアメフト担当記者は「悪質タックル」を指弾しなかったのだろうか。アメフト専門誌は数冊あり一般紙やスポーツ紙にもアメフト担当記者がいる。日大は東の覇者であるから「アメフト村」で彼らマスコミ人との交流は密であったに違いない。取材対象として大きな存在である日大とは「ツーカー」の仲であり「持ちつ持たれつ」の関係でもあったろう。大概のことはお互いの利害関係を損なわない「距離」を保ちながら付き合ってきたであろうことは想像できる。
 しかし事あるごとに『アスリート・ファースト』を唱え『選手第一』を訴えている言論機関であれば、今回の「悪質タックル」は看過してはいけない「事件」ではなかったのか。
 その後のテレビ番組に多くのアメフト担当記者やスポーツライターがコメンテーターとして出演しているが、彼らは「アメフト専門ジャーナリスト」としてその責務を果たしてきたのだろうか。出演者の中であの試合をリアルで観戦していた記者はひとりもいないのだろうか。不信感を拭えない、というのが正直な気持ちである。
 
 こうした専門ジャーナリズムに対する不信感はアメフトに限ったことではない。柔道にせよ女子レスリングでも、今回のアマ・ボクシングにしても、それぞれの専門記者はすべての問題を把握していたのではないのか。アマ・ボクシングの山根会長の「終身会長」など普通に考えて有り得ない「称号」だ。そこにかなり複雑怪奇な裏事情があるであろうことは素人でも想像できる。今回の告発状の賛同者が333人に及んでいることをみれば、アマ・ボクシング界には山根体制への批判が相当根深いことが分かるから、少しでもジャーナリスト魂があれば連盟の『病根』は容易に暴けたにちがいない。もし山根体制への批判が公表できていれば「不正判定」に泣き、ボクシングへの情熱をくじかれたにちがいない何人もの若者を救えた可能性は少なくない。それこそ『選手第一』を声高に叫ぶスポーツ・ジャーナリズムの最も重要な「責務」ではないのか。
 
 ここまでアマチュア・スポーツ界に問題が山積していることが明るみに出されたのなら、構想されているアマチュア・スポーツの統合組織「日本版NCAA(アメリカ大学体育協会)」を早急に実現する必要があるのではないか。単にアマスポーツの「健全運営」だけでなく、以前から問題になっている選手の「学業軽視」も是正されなければならないし、選手の「キャリア形成」にも配慮されることが望まれる。 
 
 我国のアマスポーツは野球の「早慶戦」や高校野球の「甲子園大会」にみられるように、純粋にスポーツを楽しむだけでは終わらない雑多なものを背負い込んでいる。この辺で古い体質を一新して、学生としてスポーツを楽しむ「原点」に立ち返ってみてはどうか。そして、なによりも、学生が『主体的』に取り組む体制に生まれ変わって欲しい。今回の日大アメフト部再建の経過に垣間見られた「学生」の主体性のなさと、学生を置き去りにして大学やOB会父兄会が行った再建の進め方に歯がゆさを感じずにはいられなかった。
 
 大学は『自治』が原則であり学生はその一翼を担っていることを再認識する必要がある。
 

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