2021年9月20日月曜日

先祖というもの

  将棋の藤井聡太九段が最年少の十九歳一ヶ月で叡王を奪取し、十代初の三冠を達成しました。偉業と言っても言葉足らずを感じるほどの「天才業」でなんとも眩しいのですが、実はこの偉業に賛辞を贈った将棋連盟の佐藤康光会長のことばがまたすばらしいのです。「白熱した内容の中、見事な結果でした。大きな勝負が続いていますが、体調にご留意され、ますますのご活躍を祈念いたします」。読み飛ばせば何の変哲もない会長挨拶に過ぎないのですが、下線部の丁寧語に込められた尊崇の念は、これが五十歳を超えた協会最高位のおとなが若干十九歳の若者に捧げたものであるということが心ふるわせるのです。同じく羽生善治九段も賛辞を寄せていますがそこでも「藤井さん」とさんづけで呼びかけています。勿論将棋界という特異な社会のことですから慣例的にそうなのでしょうが、同じころ政治家社会で行われた河野太郎氏の総裁立候補時に見せた派閥領袖への根回しを見ているだけに、彼我の余りの差――58歳にもかかわらず若輩とみなされ立候補は時期尚早と意欲を矯められるざまをさらしたのと比較すると、将棋界の潔さに象徴される「歴史」の重みへの「畏怖」を感ぜずにはいられないのです。

 

 将棋の差し手は何兆手あるか定かではありませんが、西暦1000年前後の発祥以来千年の歴史のなかで先達が経験値として差し手の選択をくりかえし「標準化」した結果が「定跡」です。時々の棋士は、それまでの定跡をベースに差し手の選択を更に積み重ねて次代へと受け継いでいくのです。従って藤井九段は彼が将棋を学び始めるまでに先達が蓄積した「将棋の歴史」を学びのスタートラインに新たな「藤井将棋」の発明を繰り返して今日の彼がある訳です。彼の実力は「将棋の歴史」抜きには存在しないのであり言葉を変えれば藤井九段の「将棋生命」は「先達」とともにあるのです。「先達」は『死者』です。現役の将棋の棋士は「今、ここ」の私――彼だけの存在ではなく先達という死者との協働によって今の彼らが存在しているのです。

 しかし考えてみれば世の中の多くのものは「歴史」のうえにあります。学問も芸術もそうです。ノーベル賞を与えられた学問的業績も各学問のそれまでの蓄積の上に「彼の独自の研究」があって顕彰されたわけで、物理学であったり医学であったりの先達の積み重ねがなければ「学問」は存在していません。芸術でもその事情は同じです。美術でも音楽でも、文学さえも歴史の積み重ねの上に「今」があるのに変わりないのです。

 

 法律も例外ではありません。いや法律こそもっとも歴史の産物と言っていいかもしれません。わけてもわが国は先の戦争に敗れて今日があります。その反省をもとに今の法律の多くが作られたのです。憲法は勿論のこと刑法も民法も無謀な戦争を引き起こした愚かさを繰り返さないような仕組みが秘められています。戦争でなくなった何百万人の死を無駄にしないという祈りが込められているといってもいいでしょう。その法律を、今の自分たちの都合にまかせて変更を加えることが許されるのでしょうか。しかも、〈国民の半分プラス一〉が〈半分マイナス一〉を無視してです。正確にいえば今の選挙システムでは国民の25%――直近2017年の衆議院選挙では自民党は得票率48%で、投票率を勘案すればすれば国民の25.7%の支持で政権党になれたのです――の多数決で法律を変更したのです。このなかには「集団的自衛権の行使容認」という先の戦争への反省――戦死者の死を無駄にしない決意ともいうべき「憲法九条」の実質的な変更も含まれていました。

 その変更を行った責任者はこんな言葉を残しているのです。「あの苛烈をきわめた先の大戦では、300万余の同胞の命が奪われました。(略)祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。(略)今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。(略)今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。(令和二年度全国戦没者追悼式総理大臣式辞より)」

 

 平成、令和と時代がうつるとともに、われわれの「現在志向」は高まり歴史軽視が顕著になってきたのではないでしょうか。東京2020オリ・パラはそもそも「復興五輪」だったはずです。それがいつのまにか「人類がコロナに打ち勝った証」に変わり果てていたのです。東北大震災で亡くなった方のうち、未だに死亡の確認されていない方が多数あります。その家族の方たちは埋葬することができませんから死者はまだ身近な存在のままです。渋谷暴走事故の遺族は今も死者と切実に生きているにちがいありません。国民の少なくない人たちは今も死者と共に生きることをつづけています。でも、ほとんどの日本人は死者の存在を忘れかけています。そしてコロナで自宅療養を強制された人で治療から切り捨てられたまま亡くなった人たちは誰にも気づかれずに死ぬしかなかったのです。格差が激しくなり分断され、見捨てられた人たちが増えれば増えるほど「人の死」が蔑ろにされています。死者の存在が希薄になってしまっているのです。

 

 柳田国男は戦後すぐに書いた『先祖の話』のなかでひとりの老人を紹介しています。新潟生まれの彼は東京で功成って田舎から母を呼び寄せ安らかに見送り、子どものための蓄えも築いて死を待つだけの晩年を迎えて柳田にあい「しきりに御先祖になるつもりだということをいった」。「未来の私」は、次の子孫にとっての先祖となり、家の安泰を支える重要な役割を担う。そのため、「現在の私」は先祖に対する供養と謝恩を繰り返すと同時に、死後に「先祖になること」を意識しながら生きる。「現在の私」の目標は、今を生きることにだけあるのではなく、死後に先祖となって家を守って行くことにも向けられる。

 

 こんな死に方をした『死者』に守られて「今の私」があるということを私たちはすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。

本稿は『死者と霊性』/末木文美士編/岩波新書―を参考にしています

 

 

 

 

 

 


 

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