2018年12月24日月曜日

小説の読み方

 保坂和志は不思議な小説を書く。猫のことばかし書いている。その猫をいつ、どのようないきさつで飼いはじめたか、とか、病気がちで病歴がこうで、どんな治療をした、とか、この猫はあの猫のこどものこどもで兄弟はだれそれに譲った、とかを綿々と書きつづり、その他に何を書くかといえばありきたりの日常茶飯のこまごまとしたことで、普通の小説のようにヤマ場も無ければとりたててこれといったテーマらしきものもない、そんななのについつい読まされてしまって、読み終わってどんな内容だったか思い出そうとしてもボンヤリとしてはっきりしない。それにとにかく句読点の読点「、」が多くてダラダラと文章が続く(これまでの文章はちょっとそれを真似てみました)。
 こんな読み方でいいのだろうかと不安になるが、考えてみればこれまで面白い小説はたいていそんなふうで夢中に読んであとに何も残らないことが多かったように思う。
 そんな保坂が最新刊の短篇集『ハレルヤ』でこんなことを書いていた。
 小説というのは小学校からみんな読書感想文を書かされた経験があったりしたために、読んでいる時間に没頭しないで、「これをどいう風に感想文にすればいいか?」ということを考えながら読むようになってしまっている。小説は野球やサッカーの中継に没頭するように、これをどういう風に感想文にすればいいか?を考えず、ただ読めばいい。読んで人に言える感想がないのはバカっぽく見えるが、そのバカっぽさは知の先にある境地だ。
 これが「公式」な小説の正しい読み方なのかどうかは別として、れっきとした小説家がそうおっしゃっているのだからこれからも、これまで通りのやり方で小説を楽しもう。
 
 この『ハレルヤ』は彼の小説にしてはめずらしくいいことを書いているのでいくつかを引用してみよう。
 
 だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうかと私は思った。それは無条件でいいと断定できるのだろうか(p146『生きる歓び』)。そうなのだ、この齢になるとしみじみそう思うようになる。いいとか悪いとかとは「別次元」のものが「人生」なのではないか。だいたい九十歳も珍しくなくなってセンテナリアン(百才以上の人のこと)という言葉が一般化して、100才以上人口がいつのまにか七万人に近くなって、そうなるともう「生きる(健康に)」ということ自体が才能のようなものになってきて…。
 
 六十才を超えて、さすがに保坂も齢を意識したか、こんな述懐を書いている。
 いまこうして他に選びようもなくなった人生とまったく別の、あの時点で人生は可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない………私はあの時点の感触に何度書き直しても届かないからもう何度も何度もこのページを書き直してきた、今の私、死んだ尾崎、あのときの私、暴走族の気配を引きずっていた尾崎、これらの関係は書いても書いても固定する言葉がない、それは言葉の次元ではない(p118『こことよそ』)。六十才やそこらで「いまこうして他に選びようもなくなった人生」などというのはおこがましいが、確かに今から思えば、「可能性の放射のように開け、死はその可能性を閉じさせられない」と感じていた、そんな時期は誰にでもあったはずだ。しかしその可能性を確実にものにできるのはバカみたいな『継続』という『才能』をもった人に限られる。
 長くつづけるというのは始まったばっかりの時期とは違う苦労といえば苦労があるもので、作品個々のオリジナル性に向う情熱みたいなことに若い頃と同じようにこだわる必要はない、という音楽観・作品観の変化をボブ・ディランに私は感じる(p168『あとがき』)。画家や音楽家、小説家でも晩年の作に『枯れた』佳品があるのはそういった『達観』のような境地に達しているからなのだろう。
 
 六十才を少し超えた保坂は「死」についてこんなふうに考えている。
 私はもともと、/「自分が死んだらこの世界なんかあってもなくても同じことだ」とか、/「自分が死んでもこの世界がつづいていくことに耐えがたい恐怖を感じる」/という風にはたぶん全然考えていなかった、/「自分が死んでも世界はある」/と、ごくふつうに考えている――と言っても、世界や人生に対する感触というのは自分が生きている一番深いところにある体感のようなもので、私はもしかすると二十年くらい前は三つ目でなく、はじめの一つ目か二つ目のように考えていたのかも知れないが、そうだったとしても一番深いところにある体感だからそこが変わってしまうと変わる前があったことも、変わる前にはどう感じていたかも、最初からなかったかのように消えてしまう、だから私は自分の死について考えるようになったはじめから、/「自分が死んでも世界はある」/と考えていたかどうかはわからない(そこがわかってもあんまりしょうがない)。
 私は一つ目と二つ目をアタマによる世界観で三つ目はもっと漠然とした世界観と感じる、だから逆に一番説明しにくい、それを私は書こうとして小説を書いて考えているように感じる。
 それでも少しだけ言葉を足すというか別な風に言うと、/世界があれば生きていた命は死んでも生きつづける。/世界があるからこそ命は無になることはない。
 「どういうこと?」と訊かれてもこれ以上に答えられない、言葉や文は精確であろうとすると元々の直観や感触を弱めてしまうことが多いのだ。/「この感じ!」/と思ったとき、それをすぐに自分以外の人と共有できる言葉にしたいという欲求が誰にでもあるが、言葉へのその無邪気な信頼や依存によって言葉が実感を裏切る(p170『あとがき』)。
 アタマで考える、というのはまだ「死」が実感できないからそうなのであって、「世界や人生に対する感触というのは自分が生きている一番深いところにある体感のようなもの」だからそれに気づくのは「死」が実感に近づいたとき――生きている一番深いところ、を覗けるようになったから『体感』できるわけで…。それを自分に納得できるように表現することは至難の業だろうし、他人にそれを伝えることは一生のうちにできるかどうかもあやしいことかもしれない。
 
 ここまで書いてきて読み返してみると、引用した文章の印象が小説を読んでいたときに感じた「響き」ほど共感を与えられないことに驚く。それだけ保坂の小説は読むときの流れが大事なのかも知れない。そのための「ダラダラ」だとしたら彼は凄い作家だということになる。今まで保坂の小説は「箸休め」のように読んできたが――専門書や硬い小説に読み疲れたときに緊張を解きほぐすために読んでいたが、そんな扱いは失礼だったのかも知れない。いや、ひょっとしたらそれこそ彼の望んでいることなのかも……。
 
 この回で今年のコラムは最終回とします。一年間おつきあいいただきましてありがとうございました。来年はもう七十八才です。いつまで頭がハッキリしているかあやしいものですができるところまで続けたいと思っています。
 来年もよろしくおねがいします。
 どうか善いお歳をお迎え下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿