2018年12月10日月曜日

『幸福感の統計分析』読書ノート

※ 橘木俊詔・高松里江共著/岩波書店刊2018926第1刷発行
 
 本書の冒頭に著者は古今の幸福論を要領よくまとめているのでまずそれを読んでみよう。
 
1. 幸福の哲学
 古来幸福についての哲学は数多あるが結論的にはカントの次の言に行きつくのではなかろうか。
 「幸福は理性による理念ではなく、想像のみによって形成される理想にすぎないのである。極言すれば、幸福ということをひとつの定義で完成することは困難なことであり、万人を納得させることのできる幸福は存在しない(p15)」
 
 ギリシャ哲学の泰斗、アリストテレスはこんな幸福論を述べている。
 「アリストテレスは『修辞学』の中で、幸福な個人が持つ性質とか獲得した功績を善のリストして提案している。例えば、生まれのよさ、十分な友人、富、十分な子ども、健康、容姿、権力、運動能力、名声、徳などである。(略)アリストテレスに関して強調するべきことは、よく知られていることでもあるが、「中庸」ということを重視したことである。(略)極端を排し、節度とバランスのとれた判断をすることが肝要、というのがアリストテレスの有名な思想なのである。(p8)」
 
 世に言う三大幸福論は、「ヒルティ『幸福論』、アラン『幸福についてのプロポ(幸福論)』、ラッセル『幸福の獲得』(p12)」だが、このうちのどれかを青春時代に読んだ人は多いだろう。
 
 近代の幸福論はベンサムの「最大多数の最大幸福」という社会の効用の総和を最大化する考え方に代表されるが、これに対して、アメリカの哲学者ロールズはこう批判を加えた。
 「社会を構成する個人の効用の総和ということは、それらの個人一人ひとりを同等に評価するということを意味するが、現実の世の中では、恵まれた人もいれば恵まれない人もいるし、高所得者もいれば低所得者もいるというわけで、それらの人々の効用を同等に評価して社会の効用の総合計を考えるよりも、恵まれない人や低所得者の効用により大きなウェイトを付けるべきではないか(p18)」ロールズの考えを踏まえて著者はこう結論づける。「幸福は「義務」である、と考えた方が良い理由として、人によってどの程度の幸福を求めるかということも、千差万別ということがある。高い幸福を求める人と、そこそこの幸福でよいとする人が存在する中で、社会がそれらの人々の双方を幸福にするには、政策の種類や規模が異なってくるので、「権利」としての幸福においてすべての人に対処することは困難である。幸福を個人の「義務」として、その成就の方法を個人の裁量に任せた方が自然と考えられる。(p31)」
 
 以上に見た幸福の哲学からわれわれが学ぶべきは、グローバル化が進展し格差が拡大する中で、財源がますます枯渇するすることが確実に予想されるこれからは、ロールズが述べる「高所得者もいれば低所得者もいるというわけで、それらの人々の効用を同等に評価して社会の効用の総合計を考えるよりも、恵まれない人や低所得者の効用により大きなウェイトを付けるべきではないか」という考え方を重視する以外に社会全体として効率的に「幸福」を高める道はないと思うのだが、今の政治はむしろまったく逆の方向に進んでいる。こうした政治的閉塞感が幸福感に大きな影響を与えているにもかかわらず本書はそれには触れていない。そこに物足りなさを感じる。
 
2. 統計分析から見える日本人の幸福感
 2.の詳細については次週とする。
 

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