2018年12月3日月曜日

AIと「論理国語」

 「不便益」という言葉を知った。京都大学の川上浩司教授が提案している概念で「不便がもたらす益」を物づくりに生かそうという取組みだ。たとえば「右折れ禁止」というルールで散歩をすると今までとはちがった景色が見えてくる。いつものルートで右折する交差点を右折しないで行こうとすると一本先の道を左折してさらに左折を二回繰り返すと元のルートに戻れる。毎朝通っている道でも一本先の道や裏道は意外と知らないもので右折禁止というルールのお蔭ではじめて踏み込んでみて、一度も見たこともない場所を発見するという経験は新鮮だろう。
 古民家を使った認知症の人のグループホームがある。階段が急で誰が見ても危ない。そうすると認知症の人も頭を使うようになって徘徊のような認知症の周辺症状が段々出なくなったという。危ないのは不便だが、身体の衰えを緩やかにしてくれる。バリアフリーでないデイケアセンターでは段差を超えることでお年寄りの身体能力低下が緩和されたという例もある。(以上は2018.12.1京都新聞による
 「不便益」のような発想は過去の大量のデータ処理を基礎とするAIの苦手とする分野だろうが、これからの社会はAIのできない能力が求められる。
 
 そのAI時代に生きる子供たちを導く新しい学習指導要領(高等学校)の国語の中に「論理国語」という目新しい科目が導入されている。「論理国語」というのは「論理的な文章や実用的な文章を読んで自分の意見や考えを論述する活動」「 読み手が必要とする情報に応じて手順書や紹介文などを書いたり書式を踏まえて案内文や通知文などを書いたりする活動」「調べたことを整理して,報告書や説明資料などにまとめる活動」である。
 問題はここでいう「論理的な文章や実用的な文章」にある。「ここでの論理的な文章とは現代の社会生活に必要とされる説明文論説文や解説文評論文意見文や批評文などのことである。一方実用的な文章とは一般的には実社会において具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり新聞や広報誌など報道や広報の文章案内紹介連絡依頼などの文章や手紙のほか会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文キャッチフレーズ宣伝の文章などがある。またインターネット上の様々な文章や電子メールの多くも実務的な文章の一種と考えることができる。論理的な文章も実用的な文章も事実に基づき虚構性を排したノンフィクション(小説物語短歌俳句などの文学作品を除いたいわゆる非文学)の文章である(文科省/高等学校学習指導要領解説・国語編
 
 折りしも11月30日、経団連が企業の求める人材育成について大学に伝えるため、定期的に協議する場の設置を呼びかける提言を取りまとめたことが分かった。経済界が大学側と教育のあり方に関して、公式の場で協議する体制をつくるのは初めてであるが、「論理国語」はまさに企業が求める「即戦力」の、「会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文キャッチフレーズ宣伝の文章など」を作成できる人材育成を目的としている科目である。
 しかしこれらの文章が「論理に裏打ちされた文章」なのだろうか。役人や企業人の好きな「国際人」として、「幅広い教養をちりばめた整然とした論理」を展開する欧米諸国の第一線で活躍する人たちと伍していける人材を育成できるであろうか、はなはだ疑問である。
 さらに視点を転じてここでいう論理的な文章や実用的な文章とAIの関係を見てみると「具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章」というのはAIのもっとも得意とする分野と思われる。案内紹介連絡依頼などの文章会議や裁判などの記録報告書説明書企画書提案書などの実務的な文章法令文はそんなに遠くない時期にAIに取って代わられる可能性が高く、こうした文書作成を主たる仕事とする公務員――交渉や調整を伴わない業務は早晩AI化されるにちがいない。
 
 2020年からはじまる新しい学校教育の主眼は「主体性や思考力の重視」である。社会の大変化を控えて主体的に対応できる能力を育成しようという目論見である。授業は今後、対話や議論を取り入れた課題解決型・探求型の学習スタイルが主流になるとされている。国際化への対応のため、英語の早期教科化がはかられ、小学5、6年で正式教科となり、大学入試では民間検定試験が導入される。
 問題は主体性や思考力といった数値化しづらい力を評価する危うさだ。たとえば「話すのが苦手」な生徒を安易に「学力が育っていない」と評価しては子どもの「生きにくさ」につながりかねない。
 教育の要は教員だ。人手不足がますます深刻化するなか教員の質をどのようにして確保するかにすべてがかかっている。(以上は2018.11.14京都新聞/取材ノート・山田修裕より
 
 最近つくづく思うのだが「自分の意見」をほんとうに持っている人が如何に少ないかということだ。ほとんどが本の知識や他人の意見の受け売りに過ぎない。それも「自分の結論」としてそれらを用いるのではなく、評論家的に「こんな見方もある」「こんなことを言っている人がある」と知識を並べ立てるばかりで結論の無い人が余りに多い。
 要するに「批判精神」が欠如しているのだ。本の知識、他人の意見を自分の価値観で評価して体系づける能力がないのだ。それは知識や意見を「自分の外」において記憶する段階で置かれたままになっていて、自分の感覚や直観と対峙させていないのだ。しかし「論理力」はそうした過程を通じてしか磨かれることはない。 
 
 「論理国語」という呼称(ネーミング)を採用した『文部官僚』は子供たちをどこに導こうとしているのだろうか。
 
 
 
 
 

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