2010年4月19日月曜日

蟷螂の斧

 万葉集に「物皆は/新(あらた)しき良し/ただ人は/旧(ふ)りぬるのみし/宣(よろ)しかるべし(巻十作者未詳)」という歌がある。「なんやかや言ってもやっぱり物は新しいものが良い。しかし、人間だけは私のように年経た経験豊かな方が好い」と言い切っている『老人讃歌』なのだが、これは陶淵明の『龐参軍(ほうさんぐん)に答う並に序』の一節「物は新たに人は惟(こ)れ旧」にそっくりである。陶淵明は『書経』にある「人は惟れ旧を求め、器は旧を求むるに非ず、惟れ新」を踏まえている。万葉歌人は四書五経や漢詩を必須の基礎教養として身に着けていたにちがいない。

 京都市の北区、上賀茂神社のすぐ近くに「高麗美術館」がある。ここに収蔵されている白磁や青磁は素晴らしい。こうした到来物に接した我国の陶工たちは心血を注いでこれらに肉薄しようと研鑽したに違いない。

 万葉歌人の代表格である柿本人麻呂は歌の聖と称され、彼の肖像を掲げて祭る『人麿影供(ひとまろえいぐ)』ということさえ行われたほどの存在であったが、その人麻呂も中国から深く学ぶことなくしては歌の道を極めることができなかった。人麻呂だけでない、我国の成り立ちを考える時中国や朝鮮との交わりなしに今日がないことは明らかである。又歴史を顧みるとき、ここ二、三百年を別にすれば我国はほとんど中朝の後塵を拝してきたのであり、文明史的に見れば『中国の周辺国』という位置付けを甘受しなければならないことも事実である。

 唐突にこんなことを書き並べるのは昨今の我国関係者の中国や東アジア、又アジアを中心とした新興国家への無節操な接近振りに気恥ずかしさを覚えるからである。欧米中心に経済活動を進めてきたこれまで、中国であれ韓国であれ又その他のアジア諸国を見下してこなかったといえば、それは嘘だ。それが掌を返したように上辺だけ友好な経済関係を結ぼうとしても相手に快く受入れられるはずもない。彼の国の歴史と文化を理解し尊敬の念を以て接しなければこちらの『下心』を見透かされて当然である。それなしの、臆面もない『金融危機以後の豹変』に対して全く批判のない言論界に『蟷螂の斧』を振りかざそうとしたのが今回のコラムである。

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