2020年3月9日月曜日

すでに起こってしまった未来(6)

 二十世紀自由主義的資本主義経営学の最高峰ドラッカー、彼の「未来予測ではなく事実としての“すでに起こってしまった未来”を発見せよ」という教えはわれわれに大変革を迫っている。
〈すでに始まっている自由主義の制限〉
 しかし目を転じてみるとすでに自由主義は有無を言わさず制限を受け入れざるを得ない状況に追い込まれている。身近な例として思い浮かぶのは漁業資源の捕獲量制限だろう。クジラは捕獲そのものが禁じられているし、サンマの漁獲量は北太平洋諸国8カ国で漁獲総量が規制されるようになっている。食料に関する最大の自由主義の見直し運動としては「世界食糧サミット」がある。また石油はOPEC(石油輸出国機構)が15の産油国が参加する世界最大のカルテルとして価格決定権を持って供給量の制限を行っている。アメリカのトランプ大統領は暴力的な市場介入で資本主義の破壊者として否定的に捉えられる向きが強いが、見方を変えれば中国の国家資本主義の猛威に対抗して資本主義を正常化しようとする行動と言えないこともない。さらに今アメリカで行われている民主党の大統領候補選でサンダース候補が選出されるようなことがあれば、自由放任の資本主義を推進してきたアメリカに一種の社会主義的制限が加えられる可能性の「萌(めばえ)」と捉えることができる。
 今後世界のあちこちで極点に達した矛盾の解消策として「自由主義的資本主義の制限」が起こってくるに違いない。
 
 こうした動きを後押しとして資源を民主的に共同管理する「コモン」という考え方が一部の経済学者や哲学者のあいだで起こっている。戦争の愚劣さを歴史を通して学習した人類の「賢者たち」が、理性を毛嫌いする「政治」に世界の大転換をまかせることはできないと声を上げるのは当然のことで、かってローマクラブが1972年に提言した『成長の限界』は先進諸国の指導者たちに「無視」されたが、その提言は今こそその重みが増している。
 
 先進国の思いやり、資源配分の優先権を途上国に譲って成長至上主義から撤退する。こんなことが可能なのだろうか。世界銀行は、2030年までに極度の貧困を世界全体で%まで減らす、また、全ての途上国で所得の下位40%の人々の所得拡大を促進する、というつの目標を掲げているが、これを達成するために先進国が所得再配分という形をとるか途上国の生産力を高める方策をとるかで世界のかたちが変わってくる。根底から世界のかたちを変えようとするなら後者を推進すべきなのだが、先進国の国民がそこまで「賢明」になれるかどうかは今後の課題になる。
 
 世界の貧困ラインは1日1.90ドル(2015年10月世界銀行発表)とされているから一年に換算すると約700ドルになる。先の2018年1人当りGDPの統計によれば12カ国が相当するが、世界の10%7億3600万人が貧困所得以下で過ごしている(1990年36%18億9500万人)。これらの人を含めて世界の貧困層の人たちを豊かにすることを先進国の人たちの責任と考えることができるかどうか。そのためには識字率を高め教育レベルを向上させなければならない、そのうえで彼らを職業に就かせなければならない。当然難易度の低い仕事から始めねばならないからその分先進国の単純労働は減少する。加えてAIの活用とロボット化の進展は先進国の職業を急速に消滅させる可能性がある。
 職業を得て労働の対価として所得を獲得するという国のかたちはいつまで可能なのだろうか
 
 あらゆる側面から「無制限の自由主義」は制限を迫られている。そしてわれわれ先進国ほど大幅に制限されるにちがいない。それを受け入れられるほどわれわれは『寛容』になれるだろうか。
 
〈価値観の大転換〉
 近代以降われわれは豊かさを求めて生きてきた、豊かさこそ「幸福のシンボル」だと考えてきた。豊かさには「欲求」にもとづく段階と「欲望」にもとどく段階がある。欲求は主に人類の長い間の希望であった「飢餓からの脱出」を満たせば解消できるはずのものだった。ところが人間は愚かだから自分の欲求が満たされると「他人」と比べて「欲望」を抱くようになる。他人はいくらでもいるから欲望には限りがない、そのうち実在でない「つくられた他人」と比較すようになると「欲望」に歯止めがかからなくなる。資本主義の発達は「欲望の供給者」の出現をもたらし彼らによって「つくり出された欲望」を満たす商品で溢れかえるようになった。
 今世界は、「有限な資源」のほとんどを「つくり出された欲望」を満たす商品の生産に使っている。そうではなくて、「有限な資源」をまず世界の貧困な人たちを救う商品の生産のために使えるような「仕組み」をつくらなければならないのだ。そのためには、「豊かさ」が「幸福の指標」でない「幸福観」を共有する社会にしなければならない。価値観の大転換を図る必要があるのだ。
 
 考えてみると多くの場合「豊かさ」は「便利さ」だった。欲望は「便利さ」を満たす商品として生産された。生活の便利さ、移動の便利さ、時間を省く便利さ、病気を治す便利さなどなど。最近よく町の本屋さんが少なくなったと嘆く人が多いが、言っている本人が本を手にするのを三日待てないという便利さを求めてアマゾンで本を買っているのだから世話はない。一時間に三本しかバスがないから不便だと自家用車を使う人が多いから不必要なガソリンが大量に使われる。スーパーとコンビニと百円ショップという「便利さ」を求めたお陰でいくつもの個人商店を潰した結果、彼らを非正規雇用者にしてしまった。
 アマゾンがなくても、自家用車がなくても、スーパーもコンビニも百円ショップがなくても、少々不便だが生きるのに支障はない。そんな「不便な社会」を受け入れるところから価値観の転換は生まれてくる。その代わりにどんな「新しい価値」をつくり出すのか、それが問われているのだ。
 
 「節度ある自由主義」の構築、そして「民主主義」の護持。
 人類は今ほど「歴史に学ぶ賢明さ」を要求されている時代はない。
 
 以上で6回にわたって連載した「すでに起こってしまった未来」を終わります。長文で読みにくい文章にお付き合いいただきありがとうございました。これからも市井の一老書生として「アマチュアリズム」に徹した自由な考え方を追求していきたいと思っています。
 
 

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