2019年1月21日月曜日

幼児化のひとつの見方

 新潟市を拠点として活動するアイドルグループNGT48の山口真帆さんへの暴行事件がニュースショーを賑わしている。アイドルと何とか接触しようとする熱心なファンが暴徒化した事件のようだ。一部の週刊誌の報じるところによると彼らは「アイドルハンター」と呼ばれ自分が推すメンバーのために何十万円もの大金をつぎ込む「太客」で、メンバーが寮として利用するマンションの一室を借りてチャンスをうかがっていたという。 
 この事件は偶然に起こったものだろうか。
 秋元康の主宰したAKB48に端緒をなすご当地アイドルグループが林立、身近なアイドル―「会いにいけるアイドル」を売りとしたAKBの姉妹グループが音楽業界を席巻している。ミリオンセラーなど夢のまた夢となった同業界で「ひとり勝ち」の様相を呈している『AKB商法』は、「ファンにCDを複数枚買わせようと誘導する手法」で、同一タイトルを複数仕様発売する(通常盤と劇場盤など)、購入特典の生写真封入、各種投票権(メンバーのランクづけを行う選抜総選挙やベスト盤作成投票権など)、握手会(商品1点あたりメンバー一人を指定して行う握手会など)、などなどあらゆる手段を講じてCDの売上増を図る商法である。あまりの『あくどさ』に最近批判も激しくなってきており、今回の事件以前にも握手会でアイドルを傷つける事件が起るなどファンの熱狂化と暴力化が懸念されている。
 私が特に『危険視』していたのは「握手会」だった。握手は最近ではわが国でも企業社会や公的な場で一般化してきたが、相手が自分の「好きな人」となれば話は別になる。単なる儀礼には止まらず「擬似性交」になってしまう可能性が否定できない、そう危惧していた。熱烈なファンは「おたく」と呼ばれるように、自分のすべてを賭けて「アイドル」に憧れている。もともとアイドルは「手の届かない」存在だからこそ憧れの存在であった。それがCDを大量に買えば「会いにいける」存在になって、そのうえ握手さえできるようになる。親しい異性の友達をつくることの苦手な「うぶな男性―男の子」を「貢ぎ」に誘導することは、プロのあこぎな「おとな」にとっては赤子の手を捻るよりも容易い業(わざ)であろう。そして、性に未熟な若者にとって「握手」は「性交渉への入り口」、いや「軽度の性交渉」そのものになる、これは決して誇張でもなんでもない、われわれ世代の青春時代を思い出せば頷ける感覚だと思う。未熟だからそのあとの「処置」に戸惑い、困惑することは容易に想像できる。低級で俗悪なエロビデオで発散するか手淫で紛らすか。若者を弄(もてあそ)ぶ「あこぎ」で「えげつない」こんな商法がいつまでも許されていいのだろうか。
 
 AKB商法は今問題になっている「つながり依存症」の一種とみることもできる。
 つながり依存症は「ネット依存症」と表裏の関係にあり、「リアルな友達と、いつもつながっていたい」「リアルな関係を維持するため、常にネットで確認しないと不安だ」という心理が底にあり、とりわけ中学校や高校に進む13歳や16歳といった年齢で、「つながり依存度」が高くなる傾向が認められており、その背景には仲間外れや一人でいることの恐怖があるといわれている自分に否定的な意識が強くなったりネット上の人に相談する傾向が強いとつながり依存度が高まる。
 電車やバスに乗ったとき、若い人のほとんどがスマホに夢中になっている姿を見るとその危機的状況がうかがわれる。
 
 日本人の幼児化が問題になっているがこれはなにも若者に限ったことでなくおとなを含めての傾向だが、「つながり依存症」はまぎれもなく幼児化の一類型といえる。
 大人とは?辞書によれば、考え方や態度が十分に成熟していること、思慮分別があること、としている。別の表現では、目先のことだけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる状態、ともいえよう。子どもが親に依存しているのに比して大人は自立している、自分のしたことに責任が持てる、子どもが往々にして無軌道で衝動的にあるのに対して大人は自分を律することができる―自律的である、などとも表現できるであろう。
 では、いつから、どのようにして、子どもは大人へ変わるのだろうか。家庭や学校で学習すること、失敗や衝突の経験を積み重ねることも重要な要素だろう。しかし最も重要な過程は『孤独』と向き合うことではないだろうか。自意識が目ざめて、いままで渾然一体であった親や周囲の人たちとの一体感が壊されて剥き出しにされた「自分」。不安、孤立、寂寥感。そこからいかにして「脱却」するか。「青春の苦悩」の過程で自立心が磨かれ他者との共存とつながりを築いていく。価値観を確立していく中で友人と出会う。そんな過程を踏みながら徐々に「おとな」に成長してゆく。
 欧米のキリスト教国や中東・アフリカなどのイスラム教国では入信時、「神との対峙」を経験することで孤独と向き合うことが強制され多くの若者が「自動的」に孤独を通過するが、我が国や中国のような多神教や無宗教国の若者は意識しないと孤独と向き合うことがないから避けて通ることも可能になる。そこに「ネット依存」がつけ入る隙がある、意識せずに「つながり依存」に陥ってしまう可能性が高くなる。現在のように親の庇護のもとにあって食うに困らない経済状態が保障されている「なまぬるい」状況では、知らず知らずのうちに「孤独」とすれ違っていることも珍しいことではなくなってくる。
 
 「つながり依存症」が幼児化傾向を助長しているのは明らかだろうが、「目先のことだけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる」おとなが今の世の中にどれほどいるのかは極めて心細い状態といわねばなるまい。さらに晩婚化非婚化も経済状態以外に「つながり依存症」が絡んでいるいる可能性も否定できない。
 人間は独りで生まれ独りで死んでいく。孤独こそ人間存在の根本だということを改めて考えてみる必要があるのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 

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