2014年3月17日月曜日

反科学史



 最近十年でもっとも感銘を受けた―というか影響を受けた言葉は中谷宇吉郎の『科学の方法』にある次の一節である。「自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(p103)」。この言葉はこう言い換えても良い。「科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、すなわち科学の目で見た自然の実態なのである(p39)」。

 ビッグ・データであるとかビット・コインなどというITがらみの単語がメディアに溢れているがこれらも結局、今の科学の発展段階に適した面が、人間の利益に役立つように発達したものだと断言して良い。ということは、科学で解明されないもの、科学が見落としているものがあるということを我々は絶えず意識しておく必要がある。
 ビット・コインをはじめて知ったとき、とっさに数年前マスコミを賑わした「仮想空間―セカンドライフ」を思い出した。アメリカのリンデンラボ社のゲーム「セカンドライフ」は、ゲーム内の土地をレンタルする仕組みを作り「不動産デベロッパー」が「島」と呼ばれる土地をリンデンラボから仕入れそれを他のユーザーに「賃貸」して利益を上げる、というビジネスモデルであった。当時はデベロッパーとして相当な利益を上げた人が出て話題になり又この空間での「店舗」を広告媒体として有望視する向きもあって一部の新聞や週刊誌で特集を組まれるほどであった。しかしこれを模倣したサイトが「マルチ商法」を企てるなどの反社会的な動きもあって「仮想空間ビジネス」は雲散霧消してしまった。ビット・コインの本質がどんなものかは今後の真相究明を待たねばならないが、いずれにしてもネットビジネスの危うさは枚挙に暇がない。

 「文字」が発明されたとき話し言葉のもつ「多面性」「重層性」が相当犠牲になった。ネット社会が出現して「ネットことば」になって「ことばの豊かさ」は極限まで削ぎ落とされて「言葉のもつ意味」はほとんど「一語=一意味」に成り下がり「思考の記号化」という危険な様相さえ呈するに至っている。その典型例が「アラブの春」かもしれない。ネットの持つ瞬時的な波及力が驚異的な運動に結びつき旧権力を打破して「アラブの民主化」が実現されるかに思えた。しかし多くの国の現実は「民意の漂流」となっているがそれは「ネットことば」の「不完全性」の齎す必然である。ネットで集められた「群集の多様性」を、極端なまでに単純化された「ネットことば」では包摂し得ない、或いは捨象した「言葉の持つ重層性」を収拾できない結果による「混沌」が今の「アラブの春」なのだ。

 「科学の方法に適した現象」「人間の利益の役立つように見た自然の姿」という「人間に都合の良い科学」の最たるものが「原子力爆弾」であり「原子力発電」であろう。人体への「悲惨な影響」や「自然界への想像を超えた不幸な連鎖」は検証されずに原爆は我が国に投下された。原発の「統御の限界」や「廃炉の技術(使用済み核燃料の処理を含めて)」が科学の対象になる前に原発は「実用化」され「安全神話」が流布された。その負の結果は「自己責任」として地元の「被害者」に押し付けられ「豊かな社会」は現地から「遠い都市市民」に占有されている。

 これまで「科学」は「進歩」するものであり人類の発展に必ず貢献するものとして捉えられてきた。しかし科学が見落としていたもの、捨象してきたもの、すなわち「科学の負の側面」がようやく明らかになってきた。これからは「科学の負の側面」の歴史―「反科学史」にも目を注ぐ必要がある。

 科学の持っている正負の両面を正当に評価し、西欧科学偏重の「欧米中心の世界史」を根本的に見直すことによってグローバル化が実りあるものになるのではないか。

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