2022年1月10日月曜日

老いるという生き方

  明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

 昨年めでたく傘寿を迎えることができました。毎日ご飯を美味しくいただいて健康に暮らしています、有りがたいことです。

 最近思うのですが子供のころ、年寄りは今よりずっと大事にされていましたし尊敬もされていたのではないか、それにくらべて昨今の年寄りの扱いのなんと「ぞんざい」なことか、と。そのせいもあって年寄り自身が「老い」を厭(いと)うようになって「アンチエイジング」とか「エイジングケア」だとか老いることに抵抗するようになっています。昼間のテレビを見ているとやれ「眼のかすみ、ぼやけ防止」とか「物忘れ防止」、「ひざ、腰痛防止」など年寄り向けのクスリや健康食品の広告であふれているのは驚くばかりです。なかでも「睡眠不良改善薬」には笑ってしまいます、だってそうでしょう、朝からソファで横になってテレビばっかり見て、飯食ってクソして、それで一日暮れてしまうような生活をしていてグッスリ眠れるわけがないではないですか。動いていないのですからセイゼイ4、5時間も眠っておられれば上等で浅い眠りになって当然なのです。それを薬まがいで8時間熟睡しようというのですからバチ当り、横着というのです。大体若い人の負担で後期高齢者は医療費一割負担という恩恵を受けて毎月高い薬を投与されていながらそれを完全にノミもせず捨ててしまったり、中には横流しして売り払う輩もいるらしい。そうでありながら効きもしない健康食品や薬まがいに毎月3千円も5千円も支払うというのはスジちがい、恩知らずというものです。

 

 考えてみれば年寄りが増えすぎたのです。平均寿命も延びました、戦後すぐには60才にも満たなかったのが今や男81.64才女87.74才(2020年)というのですからスゴイものです。当然年寄り(65才以上)の割合も増えていて1950年4.9%だったものが2020年には28.7%までになっています。ということは子どものころお年寄りと思っていたひとたちは今でいえば85才以上(2020年総人口比5.2%)が「年寄り」と呼ばれる年齢といっていいほどに寿命が延びたのです。

 考えてみれば食事が良くなりました。いや今になってみると良いといっていいかは疑問の向きもありますがとにかく食材と料理の種類が豊富にはなっています。「粗衣粗食」という言葉は死語になり「飽食時代」などといわれるバチ当りな時代になりました。医療も驚異的に進歩しました。いやしかしそれを進歩といっていいかは首を傾(かし)げる時代になってきているかもしれません。「死生観」が変わったからです。「生老病死」「愛別離苦」が死生観であったし人生観でもあった時代――死というものに対して『諦念』をもって従容と受け容れていた親の世代から「老いと病」に『抗(あらが)う』人生観にわれわれは知らず知らずになってしまっているのです。徐々に食が細くなって衰弱して死に至る、こんな「穏やかな死」は今や『貴重』になっています。大体死を見守ってくれていた大勢の家族が、医者や看護師さん、介護士さんになっています。

 

 社会保障の理想像として「揺りかごから墓場まで」と言われた時代がありました。もともとはイギリスの政策を表したのですが戦後わが国社会保障の目ざすべき姿として標榜されました。現状は「墓場まで」は実現されたのに対して「揺りかごから」の部分が不十分だということに世間の目が向いてきて政治もやっと本格的に取り組み始めたようです。

 「揺りかごから墓場まで」という社会保障政策がなぜイギリスで生まれたかを考えてみると、イギリスで芽ばえた資本主義が産業革命で一挙にその本質を先鋭化したのです。すなわち何の制約も加えず「資本の論理」だけが暴走すると途方もない「格差」を生みだすということを。この間の事情はイギリスの国民作家チャールズJ・H・ディケンズの作品に詳らかに描かれていますが、富は一部の資本家に集中して労働者の生活はどん底の極貧を強いられ都市インフラの整備は脆弱で衛生管理は劣悪、道路にはゴミが放置され不衛生で伝染病が蔓延する最悪の社会情勢になったのです。明治維新前後にわが国を訪れた英国人などの外国人の日記やレポートには「日本という国は衛生的で美しく礼儀正しく穏やかな民衆は仲良く子ども思いである」と驚嘆しています。

 不平等で貧しすぎる大衆の存在は社会不安を極度に高めいつ革命が起こるかも分からないほどの緊迫感でイギリス全土を覆いました。そこで政治家の打ち出した政策が「分配の平等化」であり不平等な所得を再分配によって「揺りかごから墓場まで」大衆に保障することだったのです。その財政を支えたのはイギリスの「植民地主義」です。植民地からの収奪を自国の大衆救済のために費消するという構図が18世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスだったのです。戦後植民地を放棄したために財政が成り行かなくなってこの制度を破壊したのがサッチャーです。

 

 わが国の不平等は高度成長時代には「分厚い中産階級」の存在によって社会的許容範囲に収まっていました。大衆消費社会の出現は「老い」さえも『商品化』してしまいます。「長生き」もお金で買える『もの化』したのです。社会保障の天井知らずな拡充によって一般大衆にも「老いと介護」の『商品化』の恩恵をもたらしますが「負担」には限度があります。社会保障の「臨界点」がすぐそこに迫ってきています。

 

 「老いと介護」を他人事として社会(政治)任せにしておけばいい時代は終わろうとしています。医療の進歩が「快適な老い」を提供してくれるという楽観主義の現実性が揺らいでいます。老いを「生き方」として自身が引き受けざるを得ない状況になりつつあります。「百才時代」は老後(85才以降)の15年の生き方を真剣に自分の問題として意識的に取り組み答を導くよう迫っているのです。衰えをどのようにして遅らせるか、手なづけるか。社会とのつながりをどう保っていくのか。「生きがい」をどこに見いだすのか。人間としての尊厳とどう対していくのか。

 

 年賀状が配達不能で返ってきたときの不安感、ひょっとしてあいつ逝ったか……。早寐の私が目覚め、襖一枚隔てた隣室から宵っ張りの妻の寝息が聞こえたときの安堵感。 

 偕老同穴、愛別離苦、あと五年で私もいよいよ「老境」に入ります。そのとき自分なりの生き方を見いだせているでしょうか。

 

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