2021年12月27日月曜日

「戦争」という言葉の具体性について

  専守防衛だったはずのわが国の自衛権がいつの間にか集団的自衛権行使容認に憲法解釈が変更され挙句の果てには「敵基地攻撃能力」という「先制攻撃」とどこが違うのか通常の思考能力では判断のつかないロジックを展開するまでに右傾化は止まるところがありません。さらに元総理が「台湾有事は日本の有事」と中国を煽るような言辞を弄するに至ってはもはや「敗戦」も「被爆国」という反省もこの国のどこにも存在しないような政治状況を呈しています。彼らは「戦争」というものにどんなイメージを抱いているのでしょうか。まさかゲームのようにどんな惨禍も一瞬に「リセット」できるとは考えていないでしょうね、思考力も想像力も未熟な子どもではないのですから。

 

 昭和は戦争の時代でした。そんな昭和を八万余のあまねく国民の短歌の集積で後世に伝えようと1980年講談社が『昭和万葉集』というかたちにしました。12月13日の「歌のちから」で戦争の「酷(むご)さ」については述べましたのでここでは帰還を待つ人ひとのこころから復興を果たした後の心情をたどってみようと思います。

 

※ 片腕は遂に見あたらぬ戦友を火葬に付して骨抱きかへる(羽生嶺草史)

 戦争が殺し合いであることはこの首で十分わかるはずです。

 

※ 大きな骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり(正田篠枝)

 原爆投下直後の惨状です。今もし戦争になれば広島に投下された何十倍何百倍破壊力のある原爆がミサイルに搭載されて敵国を破壊するのです。トランプ元アメリカ大統領は小型核弾頭開発を進めようとしましたがそれでも放射能の酷さは広島長崎の経験で明らかですし後遺症の過酷さは原爆資料館を見れば皮膚感覚で分かります。アメリカの核の傘に守られていると安心していても仮想敵国の核攻撃は容赦なくわが国を襲うでしょうし最初の一発で止めることができたとしても被害はわが国土の多くに及ぶことでしょう。戦争を現実問題として捉えている人たちは沖縄のアメリカ海兵隊基地がまず攻撃されるであろうと想定しているようですが、狡猾で冷酷な仮想敵国の司令官なら最初の一発で横田基地を攻撃しわが国中枢を壊滅して機能不全に陥らせようとする可能性は決してゼロではないはずです。アメリカや中国、ロシアのような国土の広大な国は不可能ですが韓国や台湾やわが国ような狭小な国土の国は一発の核弾頭(=原爆)で「沈没」させることは至って簡単なのです。想像力を働かせば現代において抑止力も戦争も「現実性」の乏しい「仮想」に過ぎないのです。

 

※ 俘虜郵便まさしく夫(つま)が手蹟にて今朝は独りの吾を粧ふ(杉井 良枝)

隣室に妻が帯とく音きこゆ幾年ぶりにわれ還り来し(石井 親一)

戦場の仮寝の夢にむつみしを人妻となりて君やつれゐる(塩井 三作)

 戦地と内地に引き裂かれ切々と思いを抱きつづけた夫婦。生きて還れたよろこびに満ちた夫婦のある一方で、誤った死亡公告や遅すぎた帰還のために愛しい妻が第二の結婚生活を止むなきにされていた例も決して少なくなかった、こんな哀しみはもう誰にも経験させたくないのです。

※ 死にざりしこのうつそみは亡びたる国のあはれをただに見てゐる(水上すゞ子)

黄昏の庭にまさしく子は立てり現身生きてあな還りきつ(西川 定子)

玉音に泣き伏しゐしが時ありて児らは東京へ帰る日を問ふ(永山嘉之)

飯櫃(めしびつ)を机代わりにこの夕べ読み書きしてゐるわが幼な子よ(山尾 悠光)

 還って、見た故郷は無残な廃墟と化していた。虚脱したこころを奮い起して我が家に立てば、黄昏の薄明の中に夢幻のごとき我が子をみて無言で迎える母の姿があったのです。それからつづく敗戦の苦難、そんななかで救いは無邪気なこどもたちの底なしの生命力です。

 

※ いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず(窪田空穂)

いきどほりに似るこのすべなさよ煮魚の骨も鱗もかみつくしたり(阿部 愛次郎)

もう二度とだまされぬぞ と思ひながら今も何か だまされてゐるやうな(新藤達三)

 敗戦の悔しさをどう表現していいのか、おとなたちは心のやり所に戸惑いをみせます。己の不甲斐なさ、信じたものに裏切られた口惜しさ。ギリギリと自分を責めるしかないのです。

 

※ あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ(川上 肇)

  街々にあかるく電灯ともりたりともしびはかくも楽しかりしか(大浜 博)

 無念と虚脱のときの後に徐々に復興への道が薄ぼんやりと開けてきます。

※ 遠き人ゆたびし玉子のさえざえと白きはだへは貴(とふと)み眺む(時井 静江)[たびし…贈られたの意]

  パンパンガールにて身を過すパンパンガールの服を縫ふわれのごとき生業のあり(八木下 禎治)

 生きて帰ってとにかく手についた生業をはじめる。しかし新しい衣装をあつらえるお金など超インフレの戦後経済の中で日本人にあるはずもなく、進駐軍にかしずく真っ赤な口紅で装った若い女性しかなかったのです。

 そんな殺伐とした飢餓状況で貧しいながらも助け合って生きていく庶民たち。疎開先でお世話になった農村の友人からなのでしょう、当時は貴重だった鶏卵を送ってくださったその温情は心に沁みたにちがいありません。

 

※ 自動扉の厚き硝子に入りてゆく蝶あり昼のまぼろしとして(斎藤 祥郎)

贅沢になりたる子よと寂しみて皿に残ししもの夫(つま)と食ふ(松井 阿以子)

新築の我が家成りて古妻と涙ぐましき半生思ほゆ(斎藤 弥生)

腰押されのぼる坂道ふと思ふ一人往かねばならぬ坂あり(四賀 光子)

 戦後復興は意外にも早くやってきました。昭和31年度(1956年)の経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したのです。「艱難辛苦」という言葉は知っていても真実を実感として知っている人はもうほとんどいないでしょう。しかし戦後の復興は筆舌に尽くしがたい苦難のもとに達成されたのです。でも決して『絶望』したことはなかったように思います。皆が等しく貧乏でしたし明日に希望を見ることができましたから。

 

 格差に分断された現在のわが国ですが、かといってそこからの脱出を誰かの「強大な力」にすがって図ろうとするのでは戦前と同じ道を辿ることになります。そんな愚を犯しては生命(いのち)を捧げて下さった同胞のかたがたに顔向けができません。ここが踏ん張りどころなのです。「若い人たち」の力を頼りに「新しい日本」をつくり出さねばならないのです。

 

 この号で今年のコラムを終了とします。ご愛読ありがとうございました。もっともっと本を読んで、思索を深めてコラムの完成度を高めていきたいと思っています。

 どうぞ良いお歳をお迎えください。

 

 

 

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