2021年12月20日月曜日

今年読んだ小説

  今年も小説(文学)を堪能しました。主に日本の近代小説と現代小説ですが海外文学、古典(古文)も少々かじりました。読書力がついたのか長編も数冊読むことができたのが今年の収穫です。眼もまだ衰えがみられませんから来年はもっとどん欲に読書を攻めたいと楽しみにしています。

 

 今年は意識して旧い作家の文学を読むようにしました。鴎外、漱石はもとより泉鏡花、幸田露伴など近代文学の先達、吉川英治、井上靖ら昭和の人気作家の作品にもふれました。そしてつよく感じたのは彼らの文学(文章)修行が並大抵でないということです。現在の一部人気作家の拙劣な文章をみると彼我の差はあまりにおおきい。なぜかと考えるにひとつは文壇の存在――師匠と弟子(親分子分)の徒弟関係で厳しく文章修行をしつけられ師匠のお許しがないと作品発表の場が開かれないという過酷な条件で磨かれたからこそデビューする作家は皆一定レベル以上の文章力を有していたのだと思います。出版不況と言われながら毎年夥しい新人作家が量産される現状では玉石混交になるのは当然で残念と言わねばなりません。

 もうひとつは「漢文」と「古典」の素養があげられます。日本語は漢文がまずあってついで「やまと言葉」が書き言葉に加えられたのですから、現代文といえども習得するためには漢文・古文の修業が必要になるはずですがどうもその方がなおざりになっているようです。その結果日本語劣化の顕著な現象が「カタカナ語」の氾濫に表れています。明治の人たちは輸入した外国文化をすべて「日本語化―漢語化」しました。いまある「概念語」の多くは漢語になっていますが明治人の努力の結晶です。中国や韓国の会話のなかになじみの日本製漢語がたびたび出てくるのは漢字文化圏の人たちが「日本語化」された「漢語」をそのまま使っているからです。明治大正のころ、わが国が東アジアの文化と経済の中心地であった誇らしさが消えてしまったことはかえすがえすも残念です。

 

 ここ数年、私の読む小説の半分近くは「女性作家」の作品になってきました。これまでも与謝野晶子、岡本かの子、馬場あき子らそんじょそこらのへなちょこ男性文士など足元にも及ばない卓越した文学者が存在しましたし樋口一葉は漱石も鴎外も認めた近代文学最高の名文家なのですから女性文学の隆盛は今さらではないのですが、今年も角田光代、杉本苑子、村田喜代子、小池昌代、朝倉ますみなどの秀れた作品を堪能しました。なぜ女性の作品が面白いかと考えるにテーマに取り組む姿勢が日常的でリアリティに溢れていることが上げられます。老い、孤独、貧困・格差、LGBT、性と生殖などを彼女たちは身じかなものとして物語化しているのに対して、たとえば古井由吉の老いの表現は内向の世代らしく深層に沈潜して練りに練られた表現になるから静謐な訴えになっています。ところが村田喜代子の『姉の島』や朝倉かすみの『にぎやかな落日』は方言を採用し南の孤島や北海道の土俗をベースに物語りますから訴えが直接でカラッとして、でも読後は老いに対して前向きにつき合っていこうという力を与えてくれるのです。

 もうひとつ特徴として表れているのは「擬古文」と今述べた「方言」を文章に取り入れている作家が増えてきたことです。擬古文――古語ややまと言葉を文章の一部に挿入したり全体を古文調で表現する作品です。池澤夏樹『ワカタケル』、高樹のぶ子『業平――小説伊勢物語』、杉本苑子『華の碑文』などを読みましたが、まだどの作家も実験段階のようですが古語とやまと言葉のもつ「ふるめかしさ」と「古層的」なひびきが効果となって「距離感」と「土俗的な深層心理」を刺戟する独特の文体になっています。この傾向は今後いろんな作家に試みを誘うことでしょう。

 

 ところでなぜ「方言」と「古文」が文学に採用されるようになってきたのでしょうか。それは現在のわが国の言語状況がきわめて危機的状況にあるからです。好むと好まざるとにかかわらず「SNS」が生活を侵食しています。短文形式が基本であるこのツールは、もともと不完全な「ことば」、言葉より一層完成度の低い「文字」を字数の極端な制限によってその「あいまいさ」をなお一層拡張して日本語を劣化させたのです。ことばと文字への信頼性が低下して「伝えたいこと」が本当に「伝わっている」かの安定性を「話者」たちの間で共有できていないのです。

 そこで多くの人にとって新鮮な「方言」と「古語―古文」を使って文章をつくってみよう、そういう試みに作家たちが挑戦し始めたのではないでしょうか。方言には手垢のついた標準語にはない地域固有の意味が言葉に貼りついていますし古語は原註を付加して意味を限定できますから受け手とのあいだの齟齬を防げます。さらに方言も古語も「土俗的な古層」をまとっていて読者との間に「なつかしい深み」が共有でき、「現在と過去」を結合した関係性を構築できる効果があります。可能性豊かな挑戦だと思います。

 

 全体的な印象はこれくらいにして今年読んだ小説でおすすめしたいいくつかを紹介しましょう。

 室生犀星『かげろうの日記遺文』(講談社学芸文庫)、松家仁之『泡』(集英社)、村田喜代子『姉の島』(朝日新聞出版)の三篇を今年のトップ3にしました。

 『泡』は上記した今年の傾向とは関係のない純粋に文学的に私の好きな作品です。登校拒否になった高二の男の子・薫が大叔父兼定の営む湘南のジャズ喫茶で夏の間を過ごすうちに店長の岡田も混(まじ)えた少年、青年、初老の三世代の男の交流のなかで「居場所」――心のよりどころを見つける青春小説です。透明で清澄な文体がジャズ的なリズムを伴ってキレイな小説になっています。

 『姉の島』は女性作家の方言を活かした「老い」を描いた作品です。長崎の離島・魚見島の老海女が85才になって古代神話に由来する「倍暦」を与えられて老いた海女仲間でささえあいながら迫ってくるそれぞれの老いと対していく姿を描いた長寿と死の物語であり終わりのない戦争の物語にもなっています。方言の効果を活かして奥深い感興を得ました。

 『かげろうの日記遺文』は『蜻蛉日記』の中に僅か数十行しか描かれていない町の小路の女〈冴野〉と紫苑の上、時姫(正室)の兼家をめぐる三人の女性それぞれの思慕を描いた小説です。古語と古文の文体を多用した表現は川端康成をして「言語表現の妖魔」と言わしめた完成度の高い表現は現在作家が挑戦する新たな「擬古文」小説のめざすべき「頂点」といっていい作品です。

 

 最後にこれは小説ではありませんが4月から京都新聞で始まった井上満郎・京産大名誉教授による『渡りくる人びと』は、京都を中心とした渡来人についてのコラムで朝鮮半島や中国との歴史的交流を平易に説きおこして故なき「ヘイト」を諄々といさめる、現在が必要としている本格的な学びの文となっています。ぜひ一読してほしい名コラムです。

 

 来年はどんな小説に出会うでしょうか、楽しみです。

 

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