2021年12月6日月曜日

老いについての断章〈21・12〉

  夕食が終わって私がテレビを独占すると妻は傍らで娘とLINEするようになりました。別に独占するつもりはないのですが7時、8時台テレビはお笑い芸人たちの若い人向けのにぎやかし番組ばかりで老夫婦の見るものがなく録りだめしたドキュメントやドラマを見るようになってしまい興味のない妻はLINEにふけるようになったというわけです。

 ITには無縁だった妻が今年はじめにスマホが欲しいといいだしたのは姉や妹がLINEしているのを知ってひとり置いてけぼりされているように感じたせいかもしれません。教えられるのがイヤだったのでしょう、私が寝た後の10時ころから電話で何時間も娘に手ほどきしてもらって今ではいっちょ前に使いこなしています。先日清水さんへ散歩に行ったときの写真などは私より数段うまく撮っていて娘たちから「お母さんスゴイ」と言われて大層ご機嫌の様子でした。LINEだけでなく買い物決済などにも活用していますが妻のいちばんの恩恵は「かけ放題」の電話でしょう。娘や姉妹と毎日1時間も2時間も長電話を楽しんでいますが「こっちからかけ直すは」というのがお気に入りのようです。

 私は春に買い換えたミニコンポがすぐれもので、YouTubeがBluetoothでとばせるシステムになっていて、おまけにハイレゾ音質なので廉価盤のCDより余程いい音で聴けるのが嬉しくてジャズやクラシックをヘッドホーンの大音量で娯しんでいます。嫁に行った娘の部屋を書斎に設えたおかげで快適に読書が行えるようになったり、晩年に至ってようやく満足のいく生活がおくれるようになり感謝の毎日です。

 

 コロナで知ったことはわが日本はなんと自然に恵まれているかということです。毎朝トレーニングしている公園の樹々が四季折々に見せるたたずまい――あざやかな若葉、満開の桜の散り際のはかなさ、夏葉の生気ムンムンの勢い、赤と黄のあでやかな紅葉、スックとした枯れ木のきびしさとあきる間のない変化ですがそれが朝の濡れた逆光で見ると一段と美しさが際立って「あぁ」と感嘆をさそいます。歩いて十分たらずにある桂離宮も結構そのもので、普段は手入れの行き届いた前庭だけでも楽しめますし、道すがらの古くから住まっておられる地元の方の丹精の庭にある木々も見事で道わきの名も知らぬ草花ともども目を楽しませてくれます。これまでわざわざ遊山にでかけなければ満足できなかった自然をこんな身じかなものとして愛でることができるようになったのはコロナのおかげです。それもあっていまでは書斎に妻が手活けの花を欠かさなくなってくれました。

 二十年ほど前から本は地元の本屋さんで(もと)めるようにしています。Amazon全盛ですが若い店員さんと本の話をするのが好きで節を守っています。識者と呼ばれる人たちが「町の本屋さんの衰退」を論じながらわが身はAmazonの「利便性」を享受している姿への抵抗もあります。しかしそれよりもこのままAmazonに市場を独占されてしまうとAmazonの恣意性に出版事業が蹂躙されてしまうのではないかという大仰な惧れもあるのです。Uber Eatsで出前をとるのに何の違和感も持たなくなった風潮にも馴染めませんし100円ショップはほとんど利用しません。廻る寿司も同様です。「老人の矜持」といえば大げさですがこの姿勢は貫きたいと思います。

 そんなことを言いながら「シネコン」は喜んでいるではないかと言われれば一言もありません。三年ほど前イオンシネマが自転車一〇分のところにできてこれはまことに有りがたいのです。時間は自由な身なので平日昼の部はゆったり映画がたのしめて、音響もいいからシネコンは最高です。

 

 高齢になってのいちばんの変化――不具合は「パニック」です。すべてが予定調和の安定性のうちにないとパニクってしまうのです。免許を返納して自転車が多いのですが、四辻で左から自転車と出会うとギクっとします。安全のために裏道を利用することが多いのですが、住居が立て込んでいて左側は大抵ブラインドになっていますから「見えないところ」から自転車がとびだしてきます。それが「驚き」になってくるのです。左から右折車が切れ込んでくるときなどまさに「パニック」です。歩いているときでも事情は変わりません。

 最近高齢者の自動車事故――アクセルとブレーキの踏みまちがいの事故が多発していますが「予定調和」を破る状況に陥るとほとんどの年寄りは「パニクる」のです。

 

 以前叔父が叔母を亡くしてひとり住まいになったとき、広い家の六畳の部屋に閉じこもるように、すべての立ち居振る舞いをそこで済ますようになり、夏でも置き炬燵の前に座り込んで定位置の座布団から手を伸ばせば届くところにすべての道具を配置してテレビはリモコンですから、トイレに立つ以外はそこに座るか寝転ぶかで一日を過ごしているのを見て唖然としましたが、年寄りの日常というのはそんなものになりがちなのです。

 とにかく「予定調和」、安定感のなかで暮らしたいのです。いや暮らさないと不安なのです。すべてを「ルーティン」化しておきたいのです。

  

 私のルーティンは帰ったら下駄箱の上の鍵入れの箱を開けてキーケースを収め箱の上に自転車の鍵やなんやかやを置いてフタを閉めて玄関に上がるようにしています。あるとき箱の上に自転車の鍵を置いてフト見ると箱が閉まっている。にもかかわらずキーケースはポケットにない。あっ!落とした?忘れた?パニック!ない、ない、無い!ドアを開けて飛び出しそうになって念のため箱を開けてみると「あった!」。今日に限ってキーケースを入れてスグにフタを閉めていたのです。

 こんなことでパニクるのです。しかもしょっちゅうです。

 急に会話や映像(周囲の景色)のリアリティが薄れることがあります。自分が「そこ」に居ないのです。距離感がボヤけてくるのがなぜか「楽」なのです、すべてのものと「間」ができることが心地よいのです。でもスグにそこから「もどって」こないとヤバいのです、認知症にちかづくと思うのです。

 

 老いることはラクです、でもあやうくもあるのです。

 12月2日80才になりました。いたって健康です。

 

 

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