2021年5月10日月曜日

ご隠居さん

  今や「死語」になってしまった感がありますが昭和三十年代(1960年代)には町内に少なからず「ご隠居さん」がいました。何をするでもない、日がな一日ブラブラ町内を歩き回っている暇な爺さんが居て「結構なご身分やね」などと嫌味を言われても我関せず、悠々としながら夕方になると銭湯に浸かってサッパリして一杯呑み屋で少々聞し召して家に帰っていく。かと思えば早朝から釣りに出かけ三時ころ帰ってきて銭湯、一杯呑みといつものコースで又一日が暮れる。ご隠居の一日はそんな繰り返しで「よくあれで退屈しないものだ」と若い我々は思ったものですがご本人は飄々としたものでした。

 

 「隠居」を民法をもちだして解説するとなると家督であったり戸主などという今の若い人には分からないことが多いからそれは省略して有り体にいえば、家業を息子(後継者)にゆずって仕事――「稼ぎの場」からリタイアした男、爺さんのことです(女性のこともないことはないのですが極めて稀でした)。今で言えば「定年退職者」も隠居になる訳ですがそう言わないのは彼らが「勤め人」であって家業に従事する「自営業者」でないからです。従って自営業者が全就業者の六割以上を占めていた昭和三十年代に町内に一人や二人はいてもおかしくなかったわけで、それが昭和四十年代以降急速に自営業者が減少して今や一割少々にまで落ち込んでしまったのですから(農業従事者を含む)その存在が絶滅危惧種になったのも当然なのです。ところでこの隠居という存在は決して「ネガティブ」な意味ばかりでなく、初めて本格的な日本地図を作成した伊能忠敬は55才で隠退して年来の研究であった日本の測量に取り組み17年をかけて地図を完成させたという例もあり、研究や学問、芸術分野でも隠居してから名を馳せた人も結構あったのです。しかし多くは暇つぶしの遊びを楽しむタイプが多かったようで仕事という「稼ぎ」の場を退いたのですから「遊び」に打ち込むのは当然と言えば当然の成り行きでした。昔は遊びではなく「道楽」という言葉が普通に使われていましたが、男の道楽と言えば「呑む、打つ、買う」が王道で酒、博打、女が三大道楽でした。お金持ちの道楽は「若いころは酒と女、中年で習い事、隠居して普請道楽」で、習い事は浄瑠璃や義太夫、小唄・長唄などで落語の「寝床」は義太夫狂いの大家の旦那と丁稚の噺でご存じの方も多いはず。普請道楽は隠居所づくりに贅をこらして、石はこれが良い、木は、庭はと限りがありませんから身代を尽くすこともある「危うい」遊びでした。

 

 時はうつり世は変わって自営業者が影を潜めご隠居は消滅、「定年退職者」でまちは溢れ返っています。65才以上の男性は約1500万人、70才以上は1000万人(男女合計で人口の20%を超えました)にも上っています。

 「本当の人生はそこから、定年になって何もやることがなくなったそのときからその人の人生は始まるのに、振り返って「オレははたして生きたかしらどうかしら」と思ってしまったら、それはちょっと向きが違ったんじゃないかしら」。最近こんな文に出会いました。吉田秀和の『千年の文化 百年の文明』という本の中にある一節で、二十年近く本棚に眠っていたのをフト取り出して読んでみるとこれがなかなか面白くついつい引き込まれてしまったのですが、40年、50年近く身を粉にして働いてきて少々の蓄えと食うには困らない年金を頂きながら暇を持て余して「余生」を過ごすという高齢者が余りに多いのではないかと吉田さんは危惧しているわけです。今や人生百年の時代です、これでは晩年の20年、30年が勿体ないではないかと彼は言うのです。

 しかしこれは無理もないのであって、これまでは現役時代を終えてからの人生はたかだか十年ほどのもので70才そこそこで寿命が尽きていましたからこの期間に関する情報がほとんどないのです。現役時代の生き方に関しては多方面から碩学の示唆に富んだ指南があったのに比べて「こちら側――仕事をはなれてから」の生き方についてはほとんどそれがないのです。それ故に突然そこに放り込まれた高齢者たちは右往左往してしまうわけで、今の状況は人生百年時代にふさわしい「人生後期の生き方」の定番ができあがるまでの混乱期といっていいのではないでしょうか。

 

 そこで人生後期――現役の仕事を離れてからの二十年、三十年の生き方を考えるうえで必要な基本的指標をランダムに取り出してみようと思います。

 仕事の対義語は「遊び」になるでしょう。一般に仕事はつらいことですから「楽しい」、仕事は時間に縛られて忙しいですから「のんびり」、仕事は稼ぎ、生産ですから「消費」、職場は戦場に例えられることが多いですから「平和」、仕事は会社(職場)で協働で行いますから「家」「家族」「ひとり」などが後期を規定する指標になるでしょう。そして仕事は手順が決まっていて結果が求められますが、後期の人生では手順のない「好き勝手」で世間が褒めてくれるような「他人の便利さ」も生み出しません。一番の特徴は他人の強制がありませんから「暇」で「退屈」が基礎的状況になるでしょう。

 遊び、楽しい、のんびり、消費、平和、家、家族、ひとり(孤独)、好き勝手、他人への便利さ無し、暇、退屈……。思いつくままに後期人生を特徴づける指標を並べてみると思いのほか「前向き――ポジティブ」な項目が多いのに驚かされます。ということは、まだお手本はありませんが工夫次第で随分楽しく、豊かな後期人生が創造できそうな気がしませんか。

 気にかかるのは「孤独」と「退屈」です。

 

 時しも「コロナ禍」です。外出自粛で巣籠りを強いられ「暇」を持て余した人や「孤独」に陥った人のDVやコロナ離婚が取り沙汰されています。こうした報道をみると、暇と退屈と孤独が基本の後期人生を楽しく、豊かに生きることはなかなか手強い課題だということを気づかせてくれます。

 

 友人に仙人のような人がいます。朝飯を食ってのんびりテレビを見ていると庭の雑草が気にかかって刈り取ろうとしたら、鎌が錆びていたので古道具屋へ行って百円で鎌を買って草刈りをしているうちに日が暮れた……、まさにご隠居然とした生活を悠々自適しています。羨ましいと思うのですが凡人にはまだまだそんな境地には至れません。なによりも若いころから読みたかった本がなん百冊と残っていますから眼がいいうちは読んで、書いての「晴耕雨読」でいきたいと願っています。

 

 後期人生、楽しみたいものですね。

 

 

 

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