2021年5月31日月曜日

ダイバーシティの受け入れ方

  キリスト教の考え方――信仰に「神の似像」というのがあります。人間は「神の像」と言われて、他の被造物とは異なり、神に似せて創造された特別な存在だという考え方です。神が世界を創造するとき、全知全能の存在である自らを一つや二つの被造物を創造したくらいでは表現しきれないので、様々の動物もあれば天体もあるというように、実に多様なものから構成したのです。多数の多様な被造物を作り出し、そのすべての被造物が総体として織りなす世界ができることによって、はじめて全知全能の神が世界となって現れるのです。そうした被造物のなかで人間は、他の被造物とは異なり、神に似せて創造された特別な存在だと考えられたのですが、それが「われわれ(神)にかたどり、われわれ(神)に似せて人を造ろう」という神の言葉となって聖書の創世記の中に出てくるのです。すなわち、人間は神と同様に、知的な存在であり、自由意思を有し、自分の在り方を自分で決めていくことができる主体的な存在として創られたのです。キリスト教ではこうした特別な存在とし人間が造られたことによって、その能力を十全に活用して、自らの有する善を他の被造物にも分かち与える、すなわち自然界がうまく機能するように適切に管理していくことができる、そういう発想が聖書の人間観の根底にあるのです。(山本芳久著『世界は善に満ちている』を参考にしています

 

 最近ダイバーシティ(diversity)――多様性ということがよく言われます。LGBT(性的少数者――「レズビアン(女性同性愛者)」「ゲイ(男性同性愛者)」「バイセクシュアル(両性愛者)」「トランスジェンダー(性別違和)」)もその一つですし、性別や人種や民族、健常者・障碍者は多様性の大きな範疇です。学歴も出自、所得の多寡なども多様性ですし「部落」はわが国の歴史的な多様性と考えてもいいでしょう。こうした多様性を受け入れ、活用することで生産性や社会的厚生が向上するという考え方がグローバル化した社会の在り方として認められつつあります。しかし頭では分かっているのですが「実感」として「皮膚感覚」として受け入れるには少なからぬ抵抗感があるというのが偽らざるところでした。それが「神の似像」という考え方を知った時胸にストンと落ちたのです。

 わたしたちはややもすれば「ふつう」という尺度で判断しがちです。そこから人種、民族、健康などで黒人や韓国人、中国人、障碍者などの差別をしてしまいます。大卒であるかどうか、部落出身者でないか、お金持ちかなどで排除することも知らず知らずのうちに仕出かしています。しかし実は、こうしたあらゆる存在はすべて「神の分身」として創造されたのですからどれか一つ欠けても「完全な世界」にはならないのです。レズもゲイも男女の性交者と同列に「あるべきかたち」として存在しているのです、これまでのように「レズ」「ゲイ」も認めるというのではないのです。あらゆる存在がみなそろって「完全」になるのです。戦争のない――平和で人類がそろって健康で幸せな生活の営める世界が出現するのです。

 人類だけでは「完全」な世界――地球にはなりません。生物の多様性、天体としての地球の、環境が保全されなくては地球の完全性は維持できないのです。

 

 人間は「神と同様に、知的な存在であり、自由意思を有し、自分の在り方を自分で決めていくことができる主体的な存在」として創られたのですから、その能力を十全に活用して、自然界がうまく機能するように適切に管理していくことができる、はずなのです。

 実際、人間は長い人類史の過程を経て、今が最も「発展」し「成長」した段階に達しているはずなのに、一歩まちがって核戦争のボタンが押されたり温暖化が加速度的に悪化したりしたら、人類は絶滅してしまう、そんな「危機」に瀕しているのをどう説明すればいいのでしょうか。

 人類を絶滅の危機に追い込んでいるのは、キリスト教を信仰しているアメリカ人であったり、イギリス人、フランス人、ロシア人などの先進諸国(日本も含まれています)であるのは何故でしょうか。大統領就任式の宣誓に聖書に手を置くのは信仰に恥じない行いを誓うのではないのですか。

 

 人間は歴史と共に「進歩」「発展」するものと信じてきました。科学の発達がその実現を加速してくれると願ってきました。しかしそれと歩調を合わすように「信仰」や「倫理」を「生きる価値」から排除してしまいました、いや「見えないもの」にしてしまったのです。

 「進歩」や「成長」はそれほど良いものでしょうか。結局それは「便利」しかもたらさなかったように思うのですが。

0 件のコメント:

コメントを投稿