2018年1月15日月曜日

寝正月

 久し振りに寝正月を決め込んだ。朝酒してソファでゴロ寝、テレビを横目に軟らか目の本を数冊パラパラ見。そんななかに『どどいつ入門(中道風迅洞著徳間書店刊)』があった。
 「都々逸」は七七七五の二十六字句(歌)で、日本独特の短詩形のひとつである。川柳に似た軟文系で川柳よりエロっぽいものがよく知られている。少し前までは寄席でも「都々逸漫談」が演られていて相当際どい「おとな」向けの都々逸がうけていたが、客層が変わって廃れてしまったようだ。
 
 程よく老いたが残り火消えず かき立てるには荷が重く(木村ひさ子)
 この現代都々逸が気に入ったのは自身がその年ごろにあるから身につまされたのだろう。老いから遠い時代に抱いていたイメージでは、この年代―七十代にも至っておれば「枯れて」いて、生臭い欲望はとっくに消えているはずなのだが、とてもその境地にはほど遠い我が身が愧ずかしくもあり、情けなくもある。物欲も金欲も色欲も、残り火どころか火勢は一向に衰える気配もなく、俳人金子兜太のいう「性欲はあっても性力がない」老身を嘆くばかりである。
 
 たとえ姑が 鬼でも蛇でも ぬしを育てた 親じゃもの
 ぐちも言うまい りん気もせまい 人の好く人 もつ果報
 けんかしたとき この子をごらん 仲のよいとき 出来た子だ
 夫婦の機微を突いた句。嫁姑問題はいつの時代にもあったものなのだろう、好きで一緒になった夫を生んでくれた人と思えば気も静まろう、浮気っぽい夫だがそれだけ持てていると思えば納得もいく、憎たらしい顔を見るのもイヤな夫、この子ができた頃はあんなに好きだったのに。昔の人は煮えたぎる気持ちの「おさめ方」が上手だったようだ。
 花も紅葉も 散ってののちに 松のみさおが よく知れる
 弱いようでも 心の意気地 石さえもたげる 霜ばしら
 こぼれ松葉を あれ見やしゃんせ 枯れて落ちても 二人連れ
 雪の化粧は さらりとやめて 素肌じまんの 夏の富士
 最近余り使われなくなった言葉に「心意気」がある。すっぱりとしていさぎよい心だてをあらわす言葉だがいいことばだし、もっと大事にしたい「心情」だと思う。冬枯れの野に常緑を際立たせた松の木の清々しさを昔の人は好んだようだ。その松の木からこぼれ落ちた松葉を見れば二葉が対になっている、愛しさが胸をうつ。
 枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 しりながら
 よその夢見る 浮気な主に 貸してくやしい 膝まくら
 すねてかたよる 蒲団のはずれ 惚れた方から 機嫌とる
 重いからだを 身にひきうけて 抜くに抜かれぬ 腕まくら
 からかさの 骨の数ほど男はあれど ひろげてさせるは 主ひとり
 都々逸らしい色っぽい句。戦後しばらく「女郎屋」と呼ばれる売春街があった。また「妾(めかけ)」として妻以外に情人をもつ男も少なくなかった。そうした色街の女性や囲われ女の気持ちを句にした都々逸こそどどいつの真髄と言っていいかもしれない。晩婚非婚が珍しくなくなった現代、なにもかもさらけ出した男女の交わりでさえ辟易するのにそれを写真や動画にとってSNSでネットにアップして平気な今どきの若者には実感はないかもしれないが、こうした情感こそ我国の「性文学」の本領だろう。それを「隠微」と言ってしまえばそれまでだが。
 私しゃ春雨 主しゃ野の花よ 濡れるたびごと 色を増す
 風が戸叩きゃ うつつで開けて 月に恥ずかし 我が姿
 ぬしとわたしは 玉子の仲よ わたしゃ白味で きみを抱く
 赤い顔して お酒をのんで 今朝の勘定で 青くなる
 色が黒うて 惚れ手がなけりゃ 山の鴉は 後家ばかり
 色気の中に滑稽味をただよわせる技術も都々逸の得意技だ。フランス小咄や艶笑喜劇に通じる領域だが、「バツ一」などと表現する現代日本人には最も不得意な分野になってしまった。
 
 英語が小学校から必修科目になる昨今。グローバル化には危機感を抱くが「文化の断絶」には無頓着な風潮にむしろ危機感を覚える。          

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