2022年7月18日月曜日

妄想的ディストピア

  大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境に入ってきました。頼朝が死んでいよいよ尼将軍政子の登場、三谷幸喜がどのように描くか、興味津々です。

 頼朝以降の歴史は中央集権から地方分権への歴史と見ることができます。奈良・平安の律令国家は中央集権制で朝廷から派遣された官僚が地方を統治していましたが武士が出現して地方に割拠するようになり頼朝によって政治の中心が京都から鎌倉に移動、家康が「地方分権」を確立するのです。200余に分割された政治的経済的に独立した地方国家の集合体としての「日本」ができたのです。徳川氏も勿論天領以外に財政権はなく約700万石の大大名であったわけです。独立採算の各大名は収入増に努めざるを得ず新田開発、特産品の開発にしのぎを削りました。徳川時代250年の各大名の創意工夫の集積が「地方資産」となり、商品経済の発展にともなって幕府の相対的な優位性が失われ倒幕に至ったのです。

 明治政府は後進性を脱するために「富の集約」を早急に行う必要に迫られ「中央集権」を強烈に、短期集中して行いました。地方の疲弊は進行しましたが世界経済のフローバル化が今ほどでなかったので地方の特色は何とか維持されていました。ところが冷戦終結後「自由主義・資本主義」が唯一の世界の統治システムと考えられて一気にグロバリゼーションが進展し「東京一極集中」が加速、「地方疲弊」が顕著になって今日に至っています。

 

 そんなところに「コロナ禍」がおそい「東電の節電要請」という異常事態が出来したのです。コロナ禍は人口の集中している大都市を中心に感染が拡がり経済活動を停滞させました。人口の3割、大企業の集中度が70%を超える「東京」はコロナの襲来によって機能不全に陥り日本経済に甚大な損害を与えました。そして今回の「東電の節電要請」は東京への集中度が『キャパオーバー』していることを表したのです。我が国の電力は大手10社で過不足なく当該地域に供給できる体制をとっています。東電が電力ひっ迫に陥ったのは想定された以上に人口と産業が集中した結果です。

 コロナ禍と東電の節電要請は東京一極集中が「危険水域」を超えていることを『緊急警告』したのです。

 

 ここからは私の「妄想的ディストピア」です。東京一極集中に歯止めがかからず、地方の都市化も急速に進展して「限界集落」が全国に蔓延し「耕作放棄地」と「荒廃農地」が国土の3割を超えてしまいました。地方都市の相続放棄された土地を含めると国土の5割が危機的状況にあります。土地価格の2極化が進み都市の土地は急騰する一方で疲弊した地方の土地価格は急落します。下落した地方の土地に外国資本が群がり二束三文の価格で買占められていきます。気がつくとわが国国土の半分近くを外国資本が占めていました。日本人需要のない中山間地域のほとんどが外国資本が所有した結果「水源」は外国資本が権利保有し、山林も同様の状況だったので木材供給が外国資本に握られるようになります。農地の半分は外国資本が占めていましたから耕作者はアジアを中心とした外国人出稼ぎ労働者や日本人失業者が低賃金で従事するようになります。人口に占める外国人比率は地方の半分以上で50%を超えています。社会保障や選挙権が外国人にも付与せざるを得なくなり地方議会を中心に外国人議員の比率が三分の一を超えるようになりました。

 日本人としてのアイデンティティは失われ国民の貧富の格差は異常に拡大し国の「分断」は極限に達しています。

 

 私の妄想は絵空事でしょうか。いやそんなことはない、ひょっとしたら2050年ころにはそうなっているかもしれない、そう思った人が相当あるのではないでしょうか。国会議員の「人口比配分」で地方の議員数が年々減少して東京圏をはじめ都市圏選出議員が増加しつづけています。都市化の恩恵としての高収入と政治的発言権増大の両方を得ることを都市住民は当然と考えています。都市と地方の分断、これは今後想像以上に拡大するにちがいありません。

 

 我が国の歴史は地方分権と中央集権の繰り返しです。地方分権が最も進展したのが250年の徳川幕藩体制のときです。それからまだ150年ですがこの短期間で日本という国はその全貌を激変させました。その間に価値観が何度も転換して今日に至っています。

 このままでは国民のすべてが幸福になるとは思えません。参議院議員選挙は終わりましたが「国のかたち」が真剣に問われた選挙であったとはとても思えません、もう時間は残されていないのに……。

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