2019年5月6日月曜日

平成という時代

 令和という新時代を迎えて平成を振り返る試みがいろいろ行われているが、市井の一市民として印象に残っている事柄から平成を考えて見たい。
 
 三年ほど前、『無事』というカードが郵便ポストに挿しこまれていた。B6ほど(大体13㌢×18㌢)の黄色の色紙に「無事」と印刷され「K学区 自主防災会」とある。ラミネートフィルムで保護されヒモで吊るされたカードに印刷物が添えられていてそれには「災害時避難されるときドアに吊り下げて置いて下さい。災害時の安否確認を表示します」といったようなことが記されていた。
 平成の30年は繰り返される「大災害」の歴史であった。関西人にとって1995年の阪神・淡路大震災の恐怖はいまだに記憶に生々しいが、2011年の「3.11東日本大震災と福島原子力発電所事故」は日本人の自然災害に対する認識を根本的に改めさせた。南海トラフ地震のリアリティが一挙に緊迫化するとともに、全国に54基ある原子力発電所が災害に対してあまりにも『脆弱』であることが明らかになった。そして2014年夏に起きた広島市安佐南地区地滑り災害は「これまで経験したことのない」「数十年に一度」の大雨が現実化していることを認識させ、2016年の「熊本地震」とつづいた「平成の大災害」は気象庁をはじめ我国の防災体制の根本的な「変革」を迫った。
 その熊本地震後の秋に近くの公園で幼稚園児や小学校の児童と保護者が一緒になった防災訓練が行われ、その直後にこの防災「無事」カードが配られたように思う。町内会の役員さんに聞いたところでは、防災会の最小単位の「役員」を「町内会長」が担当しており、緊急時一々戸別に安否確認にするのは不可能なので各戸の玄関ノブにこのカードを吊り下げることで安否確認の効率化を図る目的でこのカードが発案されたという。「K学区防災会」の組織の詳細を知らなかった私は我が地区の防災体制に不安を覚えた。
 
 不安がさらに高まると同時に『怒り』を覚えさせられる事実が明らかになった。それは、このカードの配布が『町内会会員』に限定されている、ということで、その後新聞で何度か報道された他地区の防災活動の記事にあった同様のカード配布も町内会会員限定であり、京都市全体で同じようなことが進められているらしいということを知ったのだ。我がマンションの町内会組織率は一割くらいで周囲のマンションも大体そんなもので、マンション以外でも組織率は低下傾向にあるという。この地域は若い子供のある夫婦が多く、子どもが小学校に通っている間はPTA活動や「地蔵盆」の関係があって町内会への参加率は高いが子どもが中学高校へ進むにつれて脱退者が増えていく。一方で高齢化も相当進んでいて古くから住んでいる層は夫婦の片方が亡くなって子供と同居するために他地区へ転居するひとが結構多い。また他地区からマンション住まいするために転入する層もあり、これらの人たちは町内会へ入ることはほとんどない。
 『防災』が「町内会会員限定」であっていいはずがない。むしろ会員さん同士は日頃顔馴染みだから災害時に声掛けも容易で安否確認も漏れなく行われるに違いないが、会員でない付き合いのうすい、とくに孤立した老人夫婦や独居老人こそ安否確認が困難で、「防災体制」の「編み目」からこぼれ落ちてしまう層になる。そしてそれが防災体制確立の「障碍」となっている。「K地区防災会」がどんな組織の下部団体か詳細を調べていないがたどっていけば「京都市防災システム」にゆきつくはずだ。そのシステムの最も下部の組織で災害発生時には現場最前線で活動する組織がこの体たらくでは「防災システム」そのものの『実効性』が疑われる。
 京都市の防災システムには以前から疑問を持っていてこんなことがあった。2012年に「東北大震災に係る復興関連予算」が全国の災害対策に『流用』された(政府をはじめ全国の行政は流用ではないと強弁しているが)。この予算を用いて近くの公園に災害緊急時に「臨時」に利用できる「トイレ」が設置されたのだが、これを地区の消防団や小学校の防災会にお披露目されたこともないし、このトイレが市の防災システムにどう組み込まれているかも定かでない。
 
 システムでいえば戦争時の「シビリアン・コントロール」が実際にどのように機能するのか、国民は理解しているだろうか。安保法制の『改悪』があって「集団的自衛権」が発動される可能性が数段高められ、現実としてカンボジアへ自衛隊の海外派遣が実行され「戦闘行為」が発生しているがそこで「シビリアン・コントロール」が機能したということは「知らされて」いない。
 平成の変化でもうひとつ気掛かりなのは、「労働組合」の組織率が17%に低迷しているにもかかわらず、非正規社員が労働者の3割を超えているにもかかわらず、「労使交渉」の結果として、政府機関の政策作成時に「労働者代表」として組織率17%の「労働組合の代表者」が参加して、法律が定められて行政が進められているという現実に「不都合な真実」をみる。
 
 この国のあらゆるシステムは、万遺漏なく、定められているように見えてその一々を末端までたどってみると、どこかで途切れてしまったり、手がかりを見付けだせなくなったりしてしまうことがしばしばだ。
 結局、多くのシステムが老朽化していて、対象とされていた市民の層がどんどん「抜け落ち」て、残された層の『既得権』化してしまって、その層と「はじき出された」層の対立が激化するか、対立が消えて「見捨てられた」層が「取り残されて」しまっている。
 それを政治が『政治化』することができず、『投票率』が際限なく低下していって、それでも「とりあえず、投票行動を起こすことが政治の劣化を防ぐ唯一の手段だ」とマスコミは市民を啓発しつづけている。
 
 最後に「ささやかな変化」として近くの公園の「市民野球場」の利用がすっかり「様変わり」したことも平成の印象深い事柄として取り上げてみたい。この十連休の利用状況がその特徴を如実に現わしているのだが、利用日は半分しかないし、利用時間も一日2時間から4時間ほどで終日利用される日は一日もない。とくに顕著なのはおとなの一般市民の利用が極端に少なくなって、5、6年前までは土日になれば、特に日曜日は一日中利用で埋まっていたものだが、最近はもっぱら「家庭サービス」に親父さん連中が専念している様子が窺える。日ごろは仕事一方で休みの日は家族サービスそっちのけで好きな草野球三昧、という親父像はもろくも崩れ去ってしまったようだ。
 少年野球もすっかり様変わりして以前なら罵詈雑言、叱咤暴言、手も出ていたのがいまや、諄々と言ってきかせ、暴力沙汰などまったく姿を消してしまった。練習日自体が減少して休養日が設定されるようになっている。
 公園の「市民球場」の利用からうかがえる市民像は「家庭重視」「個」重視の社会像が浮かび上がってくる。
 
 『連帯』の消滅。「平成」の最大の変化をそこに見出す。そして、分断され、孤立する市民の『紐帯』が『皇室』で保たれている『危うさ』を強く感じる。
 
 
 

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