2019年4月29日月曜日

年金生活者の友人関係2019

 女性受刑者の獄中結婚が話題になっていた。先日馴染みの喫茶店にいったとき女性連中が「木嶋佳苗死刑囚が3度目となる獄中結婚」という週刊誌の記事をああでもない、こうでもないとヤリ合っているのを聞くともなく聞いていて、勿論結論は出なかったのだが心に残って帰ってから自分なりに考えてみた。そして、戦地の兵隊さんを思い遣った。
 戦争末期、家系を絶やさないために本人たちをそっちのけにまわりの大人たちがお膳立てして、そそくさと祝言を挙げて一夜二夜の夫婦生活だけで戦地に赴いた、そんな話を何度も聞かされた記憶がある。絶望的な劣勢の中で明日は死ぬかも知れないという窮極の状況で、残してきた妻のために生きて帰りたい、決して「お国のため」「天皇陛下のため」「おかあさんのため」でなく故郷にいる「妻」のために、生きている、戦っている、死にたくない、帰りたいと彼は希っていたのではないだろうか。戦う意味、生きる意味、生きる目的がそうであったのではなかろうか。
 女死刑囚を同列に論じるのは憚られるが、明日死刑が執行されるかも知れないという状況の中で生きるということは、意味も目的もなく、ただ「あの人のために」「あの人がいてくれるから」生きよう、そんな気持ちなのではないか。
 そしてそれはわれわれ高齢者でも同じことで、誰かのために生きているという実感がもてれば生甲斐がある、もしそれが無くなったとき、そこからが「生きるということ」の問いかけが意味をもってくるように思う。「毎日何してる」が挨拶代わりになりつつある今日この頃、せめて伴侶のために健康に長生きすることに努めるくらいの意味は自覚したいものだ。
 
 〈おかしなタイトルだが「老後の友人」というのもシックリこないのでこのまま書くことにする。
 実はこんなことがあった。
 近くの喫茶店で昵懇に願っていたNさんがとんと来なくなってしまった。正月も明けて二週間になるのにまだ一度も顔を見せないとY子(喫茶店Bのママ)さんは心配顔だ。元々は偉丈夫だったらしいがここ年ほどの間に開腹手術を回もやったせいで今では白皙痩躯の仙人然としている。そんなNさんと私が親しくなったのは彼の奥さんの伯父さんが以前私が勤めていた広告会社の社長だったことが知れたからで、加えて彼の博識と年齢を感じさせない新鮮で大胆な感覚に私が敬服していることも関係しているかもしれない。事情があって奥さんは両親の看病で東京へ行ったきりで独り暮らしをしている。
 Nさんは相当な大物だ。K大の農学部出身で行政で相当なところまでいったにもかかわらず浪人し、外国生活をへて農業関係の研究所を主宰、各地の行政と連携活動をしていたようだ。今でも時々講演で東京へ行ったりしているがいかにも「悠々自適」がふさわしい立ち居振る舞いで喫茶店でも異彩を放っている。
 数日してNさんが顔を出したとY子さんが嬉しそうに報告してくれた。食事を受け付けないので何も食わずに寝ていたのだという。何故病院へ行かなかったのかとY子さんが訊ねると、点滴して延命するしか能のないような医者なんぞと強がっていたという。 
 
 この喫茶店以外にも新しくできた友人が何人もいる。名前以外に互いに立ち入った詮索をしないから友人と呼べるかどうかも怪しい繋がりだが私は大事にしている。しかし今度のNさんのようなことがあると心が痛む。考えてみれば70歳を超えた人が多いし、中には85歳という人もいるから当然私は彼らとの別れを迎えることが多くなるだろう。別れは辛い。それが煩わしければ出会いをつくらなければいいのだが私にはそれはできそうにない。これまでの友人―幼友達や学校時代の友人、職場での交友関係まででもういいと、人と
打ち解けることを拒否する生き方もあろうが、それでは寂しい。
 
 気の合う人と気楽に楽しく交わりながら健康で長生きがしたい。〉
 
 2010年1月26日に「年金生活者の友人関係」というタイトルで上記のコラムを書いている。偶然検索していた何かのアイテムの並びに見つけて、なつかしくなってその後を書いてみたくなった。
 あれからもう10年近く経ってNさんも85歳だったFさんも亡くなってしまった。それ以外の常連さんは皆健在で、でも齢だけは10歳老けて最高齢は89歳になって、それでもまわりの同年輩よりは相当元気でいるのはこの店の女主人のせいか、客がいいのか、とにかく不思議だ。女性の場合は好き放題愚痴りまくるのが精神衛生上好循環をもたらしているのは確かなようだが。
 
 私の周囲の消息は、親戚親族の年長者がほとんど鬼籍に入って男では私が最長老になってしまった。幼友達も幾人かは亡くなったし、学生時代の友人も職場の同輩先輩もここ数年でバタバタ逝ってしまった。80歳前後というのは危うい時期なのだろうか。
 たまに会う友人の姿は無言の圧力というか激励というか、鏡のように自分が映しだされる。この二年ばかり月一回定期的に講演会を共にしている中学時代からの友人は、健康に万全の備えをしているばかりでなく、夫婦二人暮らしの中でフロ掃除などの家事分担を積極的にこなし、読書量も豊富で、一緒にいると意欲がもらえる。学生時代はやんちゃで強面だった先輩が近年温厚で熟慮の人に変身するのを見ていると、人間の値打ちというものは「はだか」になったときに浮かび上がってくるということを思い知らされる。
 
 代替わりの今週、「令和」の時代に晩年を迎える「生きざま」に思いをめぐらしてみた。そして「女性死刑囚、3度目の獄中結婚」に食らい付く『女の直観』――男連中がまったく関心を示さなかった――に恐れをなすと同時に、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と5才のチコちゃんの叱声を浴びた思いをした。
 
 
 
 
 
  
 
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