2019年4月15日月曜日

悪い政治と立派な天皇

 改元を間近に控えて「天皇制」について考えて見たい。
 
 日本の近代とは、明確な意図と計画をもって行われた前例の無い歴史形成の結果であり、英国でつくられた後進国の将来像――ヨーロッパ先進国をモデルとした歴史形成だったのです。言い換えればヨーロッパ化の実験と捉えることもできるでしょう。日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実体としてのヨーロッパを導入可能な諸機能の体系(システム)とみなし、その制度や技術や機械その他の商品を通して、個々の機能を導入し、それを日本において作動させることによって日本のヨーロッパ化を図ろうとしたのです。
 こうした日本近代化の推進力としての機能主義的思考様式は、最も機能化することの困難なヨーロッパ文明の基盤をなす宗教をも社会機能ないし国家機能としてとらえ、キリスト教がヨーロッパにおいて果たしているこのような機能を日本に導入しようとしました。即ち諸機能を統合する機能を担うべきものを宗教=キリスト教に見出だしたのです。憲法制定の任に当たった伊藤博文は憲法制定の大前提をヨーロッパにおいてキリスト教が果たしている「国家の機軸」としての機能――「我国の機軸」を日本において果たしうるものは何かを模索しました。
 伊藤によれば、我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがないと考え「我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下します。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」とみなされたのです。
 しかしヨーロッパの君主制――たとえばドイツ帝政が中世以来の「聖」と「俗」との価値の二元論を前提としていたのに対し、日本の天皇制においては「帝的なもの」と「地上のもの」とは必ずしも明確には区別されず、「聖職者」と「王」とは一体化したものとして構想されました。その結果天皇制はヨーロッパにおける君主制(特に教会から分離された立憲君主制)以上の過重な負担を負わされることになります。
 
 しかし、憲法は伊藤博文らが予定していた天皇の超立憲君主的性格を明確になしえませんでした。つまり、統治の主体としての天皇と「天皇の神聖不可侵性」とは、法論理的には両立しなかったのです。「信教の自由」を規定する大日本帝国憲法の下では政治的統治者であるとともに、精神的支配者であるということは決して自明ではなかったのです。
 そこで憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示するものとして「教育勅語」が必要になったのです。
 教育勅語を構想するに際して示された教育の目的は、第一「仁義忠孝」を明らかにすることにあり、「智識才芸」を究めることは、それを前提として初めて行われるという道徳主義的教育思想を強調します。そのような道徳主義的教育思想の源泉は、天皇の祖先の教訓である「祖訓」と、我が国の古典である「国典」に求められます。これこそが「教育勅語」の公理と論理です。すなわち「教育勅語」のいう天皇の祖先が忠孝の徳を立て、庶民が心を一にして世々その美を済(な)してきたと立論したのです。
 明治維新において天皇が公に意思を表示する文書――詔勅(詔書と勅書と勅語)は国務大臣の輔弼を経て発表されるため結果的にすべてが政治的色彩を帯びるものにならざるを得ませんでした。しかし政治的判断の混入は、勅語を世俗化し、その神聖性を剥奪する恐れがあると考えられるので、この勅語は一般の勅令や勅書と異なり、あくまでも天皇自身の意思の表明という形をとらなければならないと考えられました。勅語の宗教性と哲学性の徹底した希薄化と政治的判断の混入を排除(内閣総理大臣以下の国務大臣の輔弼を経ないで)するためには教育勅語を天皇の政治上の命令と区別し、社会に対する天皇の著作の公表とみなしたのです。この観点から、勅語にはつとめて「……すべし」という積極的表現を用い、「……すべからず」という消極的表現は避けられたのです。
 しかしこうしたアクロバティックな論理で作成された教育勅語には、憲法に拘束される立憲君主としての天皇は、「教育勅語」に体現される道徳の立法者としての天皇と両立しうるのか、という問題を内包していました。、
 そうした不安定性が危惧されたにもかかわら相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもって教育勅語は受け入れられ、立憲君主として天皇のではなく、道徳の立法者として天皇は君臨したのでした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」の要約であったといってよいでしょう。
 しかし憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相克は日本の近代の恒常的な不安定要因でした。昭和戦前から戦中にかけての日本の政治は、こうした両者の原理的あるいは機能的矛盾によって引き起こされた亀裂が、国外の環境の変動と連動しながら、その不安定化を促進していったのです。
 
 戦後、道徳の立法者としての天皇は消え去り、「国体」観念は支柱を失ったのです。そして国民主権の下での「日本国の象徴」として、また「国民統合の象徴」として天皇は新しい役割を担うこととなりました。それは現天皇の直面する問題であるとともに、主権者である国民全体の問題でもあるのです。
(以上は三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか(岩波新書)』第四章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」の要約です)
 
 平成という時代を振り返ってみれば「政治」の限りない『劣化』の時期であったと言わざるを得ない。当然国民の不満は高まるはずにもかかわらず天皇の限りなく誠実で真率な『象徴天皇』の模索が「悪い政治」の浄化作用としてガス抜き効果をもたらしてきた。アジア諸国への贖罪の行脚であり、沖縄への謝意と慈愛であり、阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本大震災への慰問で示された天皇と皇后の真摯で温和なお姿はその時々の政治の誤りに対する国民の不満を浄化してきた。
 
 今もまだ日本国民にとっての精神的支柱――ヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」は『天皇制』が果たしていると言わざるを得ない。しかし政治が何時までもそれに甘えていることが許されないのは言うまでもない。
 
 
 

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