2019年4月1日月曜日

今のままの教育でいいのか

 2020年度から使われる小学校の教科書の検定結果が文部科学省(以下文科省)から公表された。「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、知識を活用した課題解決や新しい価値を見いだす能力の育成を重視した教科書は、平均で約一割の分量が増加され、5,6年生で英語を、コンピューターのプログラミングが6年生の理科に盛りこまれている。
 先ず心配されるのは先生に英語やプログラミングを教える能力が十分に備わっているのか?ということだ。2018年から道徳が新たに教科化されたばかりで現在でさえ一杯一杯のところへ分量が一割増え、さらに英語とプログラミングが加わるというのは物理的に難しいのではないかという危惧は素人でさえ容易に想像できる。文科省は本当に今回の改訂を妥当と判断しているのか。
 更に知識を活用した「課題解決」を目指すのであれば課題の発掘とその解決の時間が必要になるが、単に知識を教えるのに比べてこの課程は相当の時間が見込まれる。もし、短時間で仕上げるような取り組みで終ってしまうのなら、中途半端な結果にしかつながらず最初からこうした課程は取り込まなければ良かったということになりかねない。
 文科省は今回の改訂を実現可能性があると本気で考えているのか。
 
 次に疑問を感じるのは現在の教科内容――特に今回追加された英語とプログラミング――が子どもたちが成人したときどれくらい役立つかについて、確たる見通しを持っているのだろうか。
 現在進行中のAI(人工知能)の実用化とロボット化は今ある仕事のおよそ半分ほどを人から機械に置き換える可能性を示唆している。高齢化と少子化の急激な進行は置換えを不可避なものにしているからこの予測は決してオーバーなものとは思えない。実際問題として「士(サムライ)仕事」と「行政の仕事」の多くはAIによって消滅すると「まことしやかに」喧伝されている。考えてみれば弁護士、計理士、税理士などの仕事は法律や行政の施行文書が煩雑・難解な故に生まれた仕事であり存在しているのであって、顕著な例が「社会保険労務士」で、社会保障関連の法律や行政の執行・施行文書が厚労省の役人でさえ十分に理解し手続きすることが困難なところから生まれた資格であって、良い例が「B型肝炎感染者給付金」の支給になぜ弁護士の手を介さなければならないのか?患者が厚労省の窓口へ申請して簡単に支給されるのであれば何の問題もないのだが、煩雑で難解な手続きのために弁護士や行政書士の世話にならなければならないのが現実なのだ。
 しかしAIはこうした「法律」のような「手続きの積み重ねの体系」の処理は最も得意とする分野であり、どんなに難解で煩雑な法律であっても、一度プログラム化してしまえば、プログラムが完全であれば、処理スピードは人間の何倍も早いから有能な弁護士や行政書士の何人分もの仕事をこなしてしまう。公務員の仕事もほとんどが同じような内容だからAIに置き換えるのはいたって容易である。
 プログラミングは「論理と手順」の積み重ねだからこれもAIに最適の仕事といえるから人よりAIに任せた方がいい。
 英語は「ウエアラブル(着装可能)」のコンピューターが進歩すれば――めがね型のコンピューターが進歩して自動翻訳の技術が今以上に進歩すれば簡単に「機械」が処理してくれて、どんな言語にでも対応できる
ようになる。5G(第5世代移動通信システム)が実用化すれば英語はコンピューターにまかせて外人と仕事をすることは普通にできるようになり、語学ではなく仕事に必要な知識や情報、対人関係の中で交わされる「会話の内容」が重要になる。
 
 AIやロボットの実用化――うえに述べたような仕事の置き換わりは、いつごろ可能になるのだろうか?2030年にどれほどが実現されているか?を推測するとほとんどが実現されていると考えてそう間違っていないとみるのが現在の技術の趨勢である。ウエアラブルのコンピューターと5Gの実用化は5年以内には相当な技術レベルのものが市場に出回ると考えておいた方がいい。
 
 もしそうなったら2020年の教科書改訂によって子どもたちが学んだ内容は彼らがおとなになったときには『陳腐化』してしまっているにちがいない。こした状況を文科省は予想していないのだろうか?
 
 大体全国一律の教科内容を子ども達全員が学習することが現在の状況で正しいのだろうか?
 後進国から先進国に追いつく国の状況においてはそうした教育は必要であった。西洋先進国という「お手本」があったから、彼らの学問を教科書にして教え込めばよかった。全国一律、全員同時も可能であったし国家の検定制度も効率的であった。偏差値によってランク付けして等級化する意味もあった。
 しかし現在はわが国も欧米諸国も同レベルにあり、しかもどの国も「解答のない――人類が始めて立ち向かう」問題に直面している。しかも一方で、学問の進展は『秒単位』で進行しており、発表される情報量は厖大なものになっているから教科書の内容は絶えず更新される必要があり内容量は増えつづける。
 こうした状況に対処できる「教科書」を、文科省という一行政機関が『検定』できるのだろうか。もし(現実性はないが)文科省が対応できるとして、そもそも全国一律の教科書で良いのだろうか?
 
 これからの10年20年は社会の大転換期である。「近代化」――欧米先進国化からの脱却、超克がわが国の課題になっている時代を迎えている。こうした状況に対処するには根本的にわが国の『教育』を更新する必要があり、「文部科学省」という行政機関は現状ではその任に当たるには『不適格』といわざるを得ない。
 
 教育は百年の大計、と言われてきたが今やそんな悠長なことではすまなくなっている。少なくとも30年後を見通すだけの『先見性』を我々はもたなければならない。それにしてはわが国の教育体制は『劣化』が激しすぎる。一日も早い体制見直しが求めれれている。
 

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