2019年4月8日月曜日

新元号 もうひとつの見方

 新元号が決定され『令和』と発表された。わが国元号史上はじめて「国書」に依る選定で『万葉集』に出自を求めたと首相は大見得を切った。言外に漢籍――中国文化の影響から解放されたという意味をにおわしているがこれは「勇み足」、というか日本の古典の浅薄な理解というべきであろう。
 万葉集巻五の「梅花の歌三十二首并(あわ)せて序」が出典で「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」(現代語訳:新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとくに白く咲き、蘭は身を飾った香のごときかおりをただよわせている…中西進著「万葉集」からの引用)の令月の「令」と風和らぎの「和」の合成語ということになる。この序文は漢文で書かれており、天平二(730)年に大宰府の長官(帥)であった大伴旅人の邸宅に集った三十二人の歌会の梅を御題にした作品群の詞書――序文である。全文の大意はつぎのようになっている。「天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸宅に集まって宴を開いた。(そしてこの後に引用文につづく当日の景色が美文調で書かれる)。そこで天をきぬがさにし、地を座席にし、膝つき合わせて盃をにぎやかにかわす。一室に座してはうっとりと言葉も忘れ、煙霞の彼方に思いをはせて互いに胸襟をひらく。きっぱりとしておのずから各人気ままにふるまい、心楽しく満ち足りた思いでいる。もし文章によるのでなければ、どうしてこのような情緒を述べることができよう。漢詩にも梅花の散るのを詠じた詩篇がある。昔も今も、いったい何の違いがあろうか。さあ、われらもよろしくこの園の梅を詠じて、いささか短い歌を作ることにしよう。(大岡信著『万葉集を読む』より)」
 
 万葉集が編まれたのは大体八世紀中頃から後期にかけてで、天平宝字三(759年までの約130年間の歌4500首――天皇、貴族から下級役人、防人などに農民、庶民を合わせたさまざまな身分の人たちの歌が全20巻に分類収録されている。当時は(学校で習ったように)ひらがな、カタカナはなく、文章はすべて漢字で書かれていたから「やまとことば」で詠じられた和歌は、漢字の当て字――万葉仮名で書かれている。公用文書は勿論のことすべての文章が漢字で書かれた「漢文」であったから漢文の常として、とくに文学的な文章は漢籍の有名な文、詩句からの引用は文飾の技巧として慣用されていた。上の「令月風和」も中国の古典『文選』あたりに似たようなものがあっても不思議はない。
 というよりも万葉集の書かれた大和時代後期から奈良時代は先進国中国の文化の移入が急務であったから、字を書く人たち――皇族、貴族、役人や一部の上層庶民は中国古典の学習、暗記が必須の教養でありそこに作文のお手本を求めていたから、そしてそれは日本の伝統となってその後の平安時代から江戸時代まで中国文化の影響は広く、深くあった。たとえば芭蕉の俳句であっても古川柳であっても、歌舞伎・浄瑠璃でさえ中国文学・文化は引用、援用されている。
 
 したがって、万葉集の旅人の有名な「梅花の」の序文――当時最高峰の文化人の漢文の序文に中国古典からの引用、援用があることは当然至極であって、それをもし、「国書」に依拠して元号を考案したから、漢籍の影響を排除したなどということは日本文学の歴史の理解があまりに浅薄といわねばなるまい。
 考えてみればこれまでのように年号の考案に漢籍ばかりが用いられるのはむしろ偏向というべきで、日本文学(文化関係書物も含めて)が採用されるのは至って自然のことであるが、だからといってその歴史を考えればそこに中国文学(文化)の影響を一切見ないということはあり得ない考えである。
 首相は談話の中で、万葉集に選採されている歌人の範囲を「防人、農民まで」という表現をしたが他にもいわずもがなの発言が目立ったのは残念であった。
 
 元号に関する発言のなかにこの「序文」からうかがえる「日本文化の先進性」について一切語る人がないことに無念さを禁じえない。先にも書いたようにこの序文は西暦730年に書かれている。当時の世界を見渡してみれば、当然のことながらアメリカはまだ影も形もないしイギリスも先史時代にある。フランスは『ガリア戦記』の時代だし、ドイツもゲルマン民族大移動の時代である。ギリシャ・ローマの時代が終焉して十八世紀の「ヨーロッパ時代」の到来をみるまでは貴族でさえも「文盲」が多く、極言すればヨーロッパの文字文化は教会の『独占物』であったと言えるから下級役人や一般市民に詩文を詠じる文化的素養など望むべくもなかった。
 にもかかわらずわが日本においては「詠み人知らず」と言われる人たち――防人として辺境の防備に狩り出された平民層や、当時の日本経済を担っていた農民や、雑人(ぞうにん)と呼ばれた人たち(鍛冶屋などの手工業者、商業、金融業者、芸能民など)でさえも詩歌を詠ずる能力を有していた。勿論それは口承で行われていたから、それらを採集して編者――大伴家持や柿本人麻呂――が形を整え文字化して万葉集に編み上げたのであった。
 更に驚くべきは、大宰府という辺境の地にあって大伴旅人という大歌人を中心とした「文化サロン」が営なまれていたことである。当時日本は関東以北と九州南部は夷狄の地であり、朝鮮、中国、ロシアを含めて外敵であったから防衛軍で備える必要がありその南の備えが「大宰府」であった。旅人や山上憶良などは首都平城京からの出向者であったが多くの下級役人は現地採用されたにちがいない。文化の中心地から遠く離れた辺境にも文化はゆきわたり、現地採用の下級役人でも歌を詠じ文字化することができたということはヨーロッパのみならず当時世界文化の中心であった中国と比べても誇るべき文化水準にあったということができる。
 こうした文化水準の高さの伝統がやがて平安時代の女流文学の興隆に結実し、今でも世界最高水準にあるといわれる源氏物語(穿鑿好きの学者のなかにはこの作品でさえ二、三の中国文学の影響を見出すという)や、枕草子、和泉式部日記などを生み出すことになる。
 
 現在、「男女雇用均等法」の完全実施、「働き方改革」など経済的側面ばかりが日本社会の重要課題とされているが、少子高齢化も含めて社会の成熟度が高まっているわが国に今望まれるのは、もういちど「文化の豊かさ」を享受できるような社会を目指すことなのではなかろうか。
 
 元号改元の過熱する報道の中でそんなことを考えさせられた。
 
 
 
 

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