2019年4月22日月曜日

 宗教と習慣

 アホ仕立ての賢がよく、賢仕立てのアホが最悪とする。これは水商売の業界で使われている「客の見立て」の俚諺らしい。司馬遼太郎の『叡山の諸道―街道を行く』のなかにでてくる。男はそういう場所にゆくと、ええ格好したくなるのとそういう場所に侍る女性をちょっと見下していることもあって「賢しこ」ぶってしまいがちになる。しかしそんなことは業界の人たちには完全に見透かされていて「あいつ、賢仕立てのアホやなぁ」と陰口されているということがこの俚諺から窺える。そんなことはおくびにもださずに「Iさんて何でもよう知ったはるわ」とおだてられて悦に入っているのだから男というものは馬鹿な生き物ということになる。
 
 この一ヶ月ほど司馬遼太郎を集中して読んだ。「街道を行く」シリーズの『叡山の諸道』『越前の諸道』、それから『空海の風景』の上下二巻という少々偏った選択で、司馬遼ファンならお見通しだろうが「仏教」関係のものばかりである。これらを読んで気づいたのは、司馬さんという人は小説家ではなくて「ジャーナリスト」だったということだ。三十年ほど前知人にガチガチの司馬遼ファンがいて彼の薦めで随分司馬さんの著作を読んだが、知人ほどにはのめり込まなかった。それは司馬さんの著作は小説ではないと感じたからで、徹底した資料収集と透徹した分析に基づいた洞察は歴史学者をもしのぐものがあって、ファンはその博識と通説に捉われない論理の展開に驚きかつ興味津々なのだが、にもかかわらずすぐれた小説がもたらす『文学的感動』とは無縁な作品であることが私の様な読者には期待はずれだったのだと思う。今度久し振りに司馬さんの作品に接して、ひょっとして司馬さんは「文学者」と呼ばれるのがテレ臭かったのではないか、わざと小説家っぽい表現を避けて、事実を事実として素っ気なく伝える、事実に到達するためには徹底した資料の穿鑿――追跡はするけれでも(森鴎外の晩年の「史伝」に通じる執拗さを感じる)、表現方法は虚飾を捨てて、少し的外れかもしれないが、科学論文ででもあるかのような書き振りを貫いたのではないか。そんな感じを強く受けた。新聞記者出身の司馬さんらしいこだわりがそこにあったのではないか、そんな感じをもった「司馬月間」であった。
 
 私は、楊枝についての詳細を、道元の『正法眼蔵』を読むまでは知らなかった。朝起きれば顔を洗うことも楊枝を使うことも、インドでおこり、中国に伝わり、日本にきた、と道元はいう。インドでは佛や如来が用いていた。であるから、「もしもちゐ(用い)ざらんは、その法失墜せり」つまりは、仏法ではない、と道元は激しくいう。彼の形而上性が、日常規範によって裏打ちされることによって成立していたという機微が、このことにもうかがえる。逆にいえば日常規範とつながらなければ、形而上性など屁理屈にすぎなくなるのである(『越前の諸道―街道を行く』より)。 
 この言葉は今の我国における「宗教の不在」を如実に言い表しているように思う。自宅に仏壇や神棚のある家は多いと思うのだが、特に我が京都では相当の割合で仏壇があるはずで、でも毎日の習慣として仏壇守りや読経と先祖祀りをしている人は余り多くない。特に若い人は少ないように思う。ところがその若い人が神社に詣いると「鈴、礼二拍一礼」という作法をキチンと守っている。先日も天神さんに参ったとき、いつの間にか三個に増えた(数年前までは真中に一個しかなかったはずなのに)鈴の前に行儀良く三列に並んで順番待ちをして、番が来ると作法通り恭しく頭を下げていた。しかしそれは「学業成就」であり「入学祈願」という「ご利益」を頂く為のものであって「純粋な宗教行為」ではない。家に仏壇があり神棚があるのに毎朝手を合わすこともなく、辞儀すらもしない、「宗教習慣」もなくて、天神さんへ詣ったときには深々と恭順の態を装う、そこに何の違和感も感じない。道元のいう「日常規範に裏打ちされていない仏法はない」に照らせば、仏法を神道に置き換えれば、にわか仕込みの「鈴、二礼二拍一礼」などしても神のご加護は望むべくもないから「ご利益」は決して期待できないことになる。そこのところの理解は彼らのうちでどうなっているのだろうか。勿論そんなことは学校では教えないから彼らは想像すらしたこともないだろうが。
 
 一方齢をとるとほとんどが「習慣」になってしまう。というか「習慣で時間を埋め合わせる」と言った方が良いかも知れない。毎朝顔を洗って、仏壇の水をかえてお花も水代えをする、ローソクとお線香を上げて般若経を唱える。こんな習慣をもっている年寄りは結構多いはずだ。私の場合は、過去帖を開いてご先祖と会話する、困っていること悩んでいることを自分なりの解決策をご先祖に話しかけると何となく肯定されたり否定されたりされているように感じる。良いことがあったら感謝し、悪いことがあったら自分が至らなかったのではないかと反省する。そんなくり返しが習慣になって仕まい際に眼を閉じて仏に祈りをささげるとき、何秒間か意識が消えるときがある。全身から力が抜けてほーっと浮遊するような感じに囲われる。そして眼を開けるとすーっと意識がもどってくる。
 この習慣のお蔭かどうか、ここ数年精神と身体が平安を保っている。結果的にこれがわたしの「ご利益」となって生活全体が良いサイクルで回っている。
 
 『空海の風景』で真言密教が経典による筆授だけでなく宇宙の真理との交信法として山野に無数に存在する魔術、呪文、マジナイの有用性を発見しそれを精妙に磨き上げ体系化して宇宙の真理と一体化する密教を完成させた、と司馬さんは解していた。お経を百万回唱える修法を繰り返すうちに何万巻という経典を暗誦する暗記術を身につけることができるとも書いてあった。そうした『不思議』も、蓄積され磨き上げられ体系化された『習慣』となって宗教に昇華されている。道元のいう、日常規範に裏づけされなければ仏法ではない、という教えにも通ずる『習慣』の重要性を認識しなおす必要が科学万能の今、あるのではなかろうか。
 
 やるべきことはみんなやりました。毎日十五時間、習慣づけて勉強に打ち込みました。何も思い残すことはありません。今日こうして健康で天神さんにお詣いりすることができました。ありがとうございます。
 こんなかたちで天神さんに「鈴、礼二拍一礼」できれば自ずと希望校受験は叶うにちがいない。神仏詣りというものはそんなものなのだろう。
 
 

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