2019年5月27日月曜日

アイデンティティー渇望症候群

 平成から令和への代替わりの時に示した国民、そしてマスコミの「狂騒」は事前の想像をはるかに超えるものだった。令和初の宮中一般参賀には14万人が押し寄せ、天皇と皇族の応拶は予定以上の回数行われた。京都御所や幾つかの地方に設けられたお祝い記帳にも多数の国民が列を成し、即位の礼をはじめとした関連皇室行事が詳細に放送され十連休中にもかかわらず多くの国民はテレビに見入った。
 そうした一連のテレビ報道の画面から伝わってくる異常な「熱」は、素直な「祝意」だけでなく、無理矢理「浮かれて」いるような、見方を変えれば「必死さ」「飢餓感」をさえ感じさせた。彼らは「何のために」「何を求め」て餓えていたのだろうか。
 
 上皇は平成の時代を「戦争のない時代」だったと規定された。結果として、少なくとも日本は戦争をすることはなかった。しかし、その代わりに、国民の皆が「戦後復興」に向かって一致協力して邁進するという『一体感』は失われてしまった。貧乏だったけど、飢えと隣り合わせの深刻な貧乏だったけれど、他人を羨み絶望することはなかった、みな、頑張れば、先には幸福がある、と信じてガムシャラに突き進んだ。資本家と労働者という「階級意識」は強く労働組合と資本家の「労使交渉」は夜を徹して行われ「0点何パーセント」かの賃上げの積み増しを求めてしのぎを削った。大企業は5%8%のベースアップを獲得したが町工場の工員さんも二千円か三千円給料が上った。大企業は3ヶ月プラス一律十万円のボーナスが支給されたが下請けのパートさんにも「ご苦労さん賃」として薄ペッらなものだがボーナス袋が渡された。少しづつ生活は豊かになったし子どもたちは「高校くらい」「短大くらい」には行けるようになった。
 70年経って、平成になって、正社員と派遣・臨時の差がどんどん拡がった、専業主婦が消えて「共働き」が普通になった、進学校と専門・専科高の分別がはっきりしてきた。東京一極集中が進んで地方から若い人が都市へ多く流れた。大災害が頻発して被害をうけた地方の復興がなかなか捗らない中、東京2020オリンピック・パラリンピックが行われるようになり2025大阪万博とIRリゾ-ト開発が決定されたと「大阪の一部」は浮かれている。
 バラバラになっている。貧富の差が拡がった、国民が分断されたとマスコミはあげつらうが、豊かな人とそうでない人、正社員の人とそうでない人、政治を動かしている人とそうでない人というような、はっきりと具体的な『差』を、皆が意識している。
 
 そんな日本国民に『天皇』だけは「差」をつけずに、いやむしろ、困っている人、弱っている人、貧しい人にこそ、平等に「接して」くださった。『最後の頼み』として『天皇』がいらっしゃる。いま、日本国民の唯一の『紐帯』、それが『天皇』なのだ。そんな切羽詰った心情が露呈したのが「代替わり」に示された国民の姿だったのではないか。
 
 歌人の永田和宏は平成天皇をこんなふうに意味づけている。「平成の天皇陛下が模索してこられた〈象徴〉の意味は、このように『寄り添うこと』と『忘れないこと』という二つの大きな要素からなっていると思っている。」「被災地訪問の第一の意味は被災者を慰め励まし、『寄り添うこと』に間違いないが、両陛下にあっては『忘れないこと』という思いが加わる。」「この忘れないは、戦争犠牲者への追悼、慰霊の旅においてこそつよく表れるものではある。」(2019.5.19京都新聞「天眼――〈象徴〉に徹することの意味」
 国民の天皇に対する心情の分析については同じく京都新聞の大沢真幸「論考2019――平和支持 日本人の無意識(2019.5.23)」が鋭い。
 まずはっきりと言えるのは、平成の天皇・皇后が実行したことは、実際に日本人がやったこと、できたことをはるかに超えていたという点だ。平均的な日本人は、天皇ほど迷いなく素直に憲法の平和主義を支持したわけではない。社会的弱者と距離を縮めようと努力したものも少ない。日本人は、天皇のようには戦争の傷を直視できず、侵略戦争の過ちを素直に認めることもできずにいる。(略)日本人は、二人が自分たちの代理人として行動したかのような気分になっている。(略)天皇が表明したのと同じレベルで、戦争の過ちを恥じている。だがそれを行動には移せない。なぜか。無意識のうちでは罪を認めている者が、それでも言い訳をしてしまうのと同じ理由からである。勇気が欠けているのだ。(略)とすれば、令和の課題ははっきりしている。自らの無意識の真実に殉ずること、つまり無意識のうちに願望しながら実現できなかったことを、今度こそ政治的に実質のあるものにすること、これである。(太字、下線は筆者
 
 2011年の「3.11東日本大震災」の復興がまだほとんど進んでいないことを忘れて、わずか二年後の2013年9月に「2020東京五輪・パラリンピック」が決定した。2014年広島土砂災害、2016年熊本地震、2018年6月大阪北部地震、30年7月豪雨、9月台風21号による暴風・高潮。これだけの大災害が次々と国土を襲い被害者が復旧・復興に苦悩しているにもかかわらず2018年11月24日2025大阪万博開催が決定した。しかもIRリゾ-ト開発と併せてという条件で。IRリゾ-トとなにやらわけのわからない名称を付けているがなんのことはない「カジノ」という博打場のことである。
 「3.11」は地震・津波だけでなく福島第一原子力発電所事故という今後半世紀に亘る復興処理を国民の税金を費かって行わなければならない。昨年の風台風で吹き飛ばされてしまった屋根瓦の修繕がまだ終っていないそのさ中に、累積した大災害の被害者救済と復興を忘れて「2025大阪万博――バクチ場付き」を開催することにしてしまった。
 
 令和の代替わりを寿ぎ、平成の天皇・皇后を慕い敬愛しながら、日本中のあちこちの国民が災害の被害にあえいでいることを「忘れて」、オリンピックだ万博だと浮かれている。そっちの方は「天皇」が私たちの代理人として「寄り添って」くれるであろうと、タカをくくって。
 
 天皇頼みを止めて、実現しなければならないことを「今度こそ政治的に実質のあるもの」にしなければ世界の笑いものに成り果ててしまう。〈象徴〉として懸命に模索された平成天皇に報いる道はそれしかない。
 
 

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