2013年1月14日月曜日

阿呆と下手

 桜宮高校バスケットボール部員自殺事件の報道が繰り返される中でこんなことを考えていた。

 勉強ができないと「お前は阿呆やなぁ(馬鹿だなぁ)」と言われるがスポーツが出来ないからといってそうは言われない。バスケットが下手や、野球が下手だと言われる。しかし同じ勉強でも書、絵画、音楽は「字が下手、絵が下手、歌が下手だ」と評価される。語学もこの部類に入るかもしれない。思うに『下手』と評価される種類のものは上達のためのプログラムがあって修練を積めばある程度のレベルまで到達することが可能な範疇のものをいい一般には『技能』と呼ばれて『獲得』するものと考えられている。勉強はそうしたテクニカルなものの他に何かを合わせて習得する必要があり学問を『修める』と表現される。

 勉強のテクニカルな面だけを捉えてプログラミングし効果を上げたのが「学習塾」である。プログラムの内容と修練の度合いで到達度が高まっていく。『勉強の技能化』が学習塾であるから勉強(広く教育と言ったほうがより的確だが)に含まれている何かを捨てている。「何か」とは同窓会を思い出せば良い。恩師の優しさ厳しさや級友との友情、そして淡い恋心などで盛り上がる。それは「学校」という場で勉強することを通じて醸成されたもので、少年野球や学習塾では手に入れられないものである。
 部活は学校生活の一部だから技能を高める以外に考慮するものがあるはずなのだが彼の顧問はそれを忘れていた。だがそれは何も彼だけに限ったことでなく部活に携わる人やそれを見守る私たちも同様に考える必要がある。部活を廃止してクラブチームや地域チームに移行すべしという意見があるが「学校」を純化するためには有効な一方策かもしれない。

 政治家育成をプログラミングして有能な政治エリートを養成しようとしたのが「松下政経塾」だろうが今のところ成功しているとは言い難い。それはプログラムに誤りがあったのか「政治」が技能化するには適さない範疇のものかのどちらかだろうが、我国経済の発展段階や民主主義の成熟度を考えるとき「我国の政治家」は4、5年程度の塾課程で養成できるレベルのものではないといえるのではないか。

 最近「エリート待望論」が盛んだが不毛な議論に思える。20年に及ぶデフレ、広がる格差と閉塞感から脱却したいという渇望が底流にあり無理もないが時代がエリートになじまない段階にある。森鴎外の「独逸日記」を読むと軍医学習得のためにドイツに留学した彼が異国というハンデをものともせず当時の先端知識や技術・施設を貪欲に習得し、文学や音楽など幅広い文化を楽しみ学んでいく様子が克明に記されている。その一方で現地での人脈を構築し又乃木希典や北里柴三郎など後の日本を牽引していくエリートたちとの交流も密に積み重ねている。詳細を極める地名人名施設名などの記述はドイツ人を感嘆せしめた堪能なドイツ語力の賜物であろうが何より驚かされるのは日本国内と変わるところのない行動力であり英国で神経を病んだ漱石と大きく異なる。ドイツ留学を終えた鴎外たちエリート候補生は受け入れる官僚機構が後進国日本の躍進の機関として機能していたからエリートに成長していった。
 今の日本では政治も官僚機構も機能していないうえに産業界も規制が強く柔軟性も流動性もない。こんな状態ではエリートを受け入れる可能性はなくむしろ「出る杭は打たれる」に違いない。

 規制を撤廃して既得権層を排除し柔軟な社会に変革してこそエリートは生まれてくるのではないか。

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