2019年10月21日月曜日

『人間の建設』読書ノート

 神戸の東須磨小学校の教師いじめ問題の信じられない実体が明らかにされたと思えば全国の学校で認知されたいじめの件数昨年度54万件を超えて過去最多となったという調査を文部科学省が発表した。「いじめ」(教師のいじめはいじめではなく暴行事件だと思うが)は子ども社会に限らず教師の間にも、教育委員会も文科省も含めて教育界全体の問題として捉えるべき問題であって、その底には今我国で行われている『教育』が本来の意味での教育ではないのではないかという根本的な疑問がある。
 そこで新潮文庫の『人間の建設』という数学者岡潔と文芸評論家小林秀雄の対談集を繙(ひもと)いて先賢の教えを学んでみよう。(驚くべきはこの対談が昭和四十年におこなわれていることである。)
 
 いまは学問好きになるような教育をしていませんね。(略)好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。(野球の選手などの例)。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないですな。(略)学問の権威というものがあるでしょう。学問の、社会における価値ですね。それが低下している。(略)社会に認められていないですね。(p10) 
 いまの中学生は同級生を敵だとしか思えないというのです。私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落としていると思います。(略)獣類にはいろいろな本能や欲情がある。ところが獣類の世界が滅茶苦茶になることはない。なぜ、ならないかと言うと、獣類の頭には、本能や欲情に対する自動調節装置がついているのですね。(略)ところが人間の頭には本能や欲情に対する自動調節装置は全然ないのですね。その代わり意識して自主的にそういうものを抑える力が大脳前頭葉に与えられているのです。人間はその働きを行使することによってのみ人として存在し得るという、そういう構造になっているのです。(略)そういう事実を無視した教育をやれば、非行少年は減りません。(p120)
 ここで語られている第一のことは「義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい」ということだ。最近は「仲間」ということばが幅を利かせているが、両先達は「友だち」と言っている。スマホのアプリでつながった「友達百何十人」という驚くべき数字の友達ではない、人生を通じて友情を保てる本当の友人――となっていくであろう、幼友達。同級生をそんな友だちと呼べるような教育が行われていないと昭和四十年に感じられていたものが55年経っていよいよぬきさしならない酷い状況に至ってきているのだ。
 まちがった教育を受けた子どもたちが、獣性を抜けきらずに「意識して自主的にそういうものを抑える力が大脳前頭葉に与えられているのです。人間はその働きを行使することによってのみ人として存在し得るという、そういう構造になっているのです。(略)そういう事実を無視した教育をやれば、非行少年は減りません。」と診断された状況がなお一層悪化している。
 なぜそうなったかといえば「いまは学問好きになるような教育をしていませんね。(略)好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります」。とにかく、何でも、やさしく分かり易く、が大事であって、本来何度も何度もテキストを読み返してやっと理解できることも、素早く、90分の試験時間に解けるような学習方法を身に着ける、そんな教育ばかりを十六年やって社会に放り出される。これでは難しい学問に向かい合う力は身に着かないし、ということは社会に出て遭遇する解決困難な問題に対処する力も教育されていないことにもなってしまう。今年もノーベル賞を受賞するすぐれた頭脳が我国から選ばれたが十年後にもそんな状況が続いているかは極めてあやしい。
 こうした事情は「学問の権威というものがあるでしょう。学問の、社会における価値ですね。それが低下している。(略)社会に認められていないですね。」という結果をもたらし、学校と先生への不信に結びついてくる。
 
 それ(素読教育)を昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。(略)意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とは何でしょう。(略)一生かかたってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。(p145)
 わかり易い教育は「意味の理解」を最重要視してきた。しかし意味の理解できること――義務教育や高校で理解できることなど、タカが知れている。そうではなくて、知らないことも「丸ごと」「すがた」として「覚える」ことの「有効性」を今の教育は捨ててしまっている。分からないままに社会に出て、何年も何十年も経って経験を積み重ねて、分からないできたことと経験が結びついて、あるとき分からなかったことがやっと分かるようになる、それが本当の学問ではないか。
 
 知性や意思は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。(略)常識は、感情をもととして働いていくわけです。(略)感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。(p39)
 知性ばかりを重視してきた我国の教育――知識教育。しかし人間は感情の動物です、感情が納得しなければ道徳ばかりか学問さえも成立しない。たとえば原子爆弾を作った科学者たちは「感情」と素直に向き合っていただろうか。
 「科学が進歩するほど人類の存在が危うくなるという結果が出ることだって、ベドイトゥング(意義)について考えが足りないのです。(p47)」 
 
 昭和四十年にふたりの「知の巨人」が危惧した我国教育の危機が最悪の段階に達している。今こそ教育の根本を見直す時期だ。
 
 

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