2021年8月16日月曜日

天の配剤

  無能の誹りを免れ得ない菅総理の無策が招いた「デルタ株の感染爆発」。感染者数は全国で2万人を超え重症者数も2000人に迫ろうかという勢いです。専門家は「災害レベルの猛威」といい、政府も「これまでとは違う強い対応を」と言い募っていますがその政府の打ち出す対策は相変わらず「お願いレベル」の、マスク、3密、そして不要不急の外出自粛に終わる体たらく。勿論お盆のことでもありますから、県境をまたいだ交通を控えお盆の帰省も中止を、と訴えていますが個人の行動規制ばかりで政府の「行政的政策」に発生当時となんら進展が見られないのは無念と言わねばなりません。菅総理の唯一の政策らしい政策「ワクチン接種」もタネ切れで接種スピードが頓挫してしまった現在ではまったくの「打つ手無し」の情けない有り様です。PCR検査の飛躍的な拡大、ワクチンの確実な接種予定に基づく集団免疫の獲得時期明言、治療薬開発の予算大増額による「国家的開発目標」策定、感染専用病院(プレハブでよい)の早期建設、等「国民の健康と生命を守る」具体策を早期に作成し政府の本気姿勢を提示して国民の信頼を獲得して下さい。選挙日程が間近ですから浮足立っているのでしょうが、国会を開いて政府与党と野党が協力して「挙国一致体制」で国難に挑むことを切に願います。

 

 それにしてもコロナ禍における「東京人」の振る舞いは納得できません。緊急事態下にもかかわらず人流に変化は見られず、いやむしろ増加して今の感染爆発を招いてしまったのです。五輪開催の皮膚感覚はわれわれ他県のものとは隔たりがあるのでしょうがそれにしても「切迫感」ゼロです。その結果が感染拡大になり東京人同士で納まりがついているのなら「どうぞご勝手に」、なのですがそうはなっていません。彼らが沖縄、北海道、金沢、京都、など全国へ越境行動することで感染を振り撒いているのです。決めつけているようで反論もあるでしょうが、全国の多くの人たちはそう思っています。なぜなら全国の多くの都市の市民は東京人ほど所得が多くありませんからそんなに頻繁に旅行に出かける余裕がないのです。正月であったりゴールデンウィークであったりお盆であったりの新幹線、航空機の混雑状況が伝えられるたびに、東京駅や羽田空港の沖縄行き、北海道行きの混雑状況が、ああまたこれで沖縄が、北海道が、京都が感染拡大になるだろうと予想され、数週して必ず感染が拡大してきたのです。

 東京人には感染拡大を及ぼした責任がまったく感じられません。全国知事会がロックダウン(に近い措置)も選択肢に挙げたのははっきり言えば、「東京圏のロックダウン」を言っているのだということを銘記すべきです。

 

 そんな折、お盆休みに入ろうかという10日ころから季節はずれの疑似梅雨前線が全国を覆い「豪雨警報」に近い雨量が予想される気象状態が起こりました。一部地方で線状降水帯が発生し甚大な被害が発生しています。この状況は西日本から徐々に東に移動しお盆休みあけのころにかけて東日本へ移動する予報です。被害の出ている地方の方には心からお見舞い申しあげますが、これはまさにコロナ感染爆発にとっては『天の配剤』です。もしこの豪雨がなかったら、お盆の越境行動は全国規模で行なわれたはずでそれによる感染拡大は悲惨な結果を招いたにちがいありません。高齢者のワクチン接種が80%を超えたこともあってPCR検査をしての実家への帰郷が大幅に増えそうな傾向が報道されていました。それが豪雨予報で予定中止を余儀なくされた人が相当数あったことでしょう。もしこの気象異変がなかったら、東京人の全国拡散に歯止めがかからなかったと思います、そして感染爆発は「大災害レベル」に達したかもしれません。雨の被害は恐ろしいですがコロナ禍にとっては僥倖ともいえる『天の配剤』になることを祈るばかりです。

 

 それにしてもどうして日本人はこうも変わってしまったのでしょうか。最近は「同調圧力」などと悪いことのように言われますが、もともとの日本人は「愛他意識」があって人様に迷惑ををかけない、世の中を良くしようという気持ちが強い民族だったはずなのです。そうした日本人を小泉八雲はこんな風に描いています(『日本人の微笑』1894年)。

 古い体制に育った日本人のなかに、決してほめすぎにはならない、礼儀正しさや、無心無欲や、善意に満ちた優雅に、われわれは出会うことがある。当世風の若い世代の連中のあいだからは、こういったものはほとんど姿を消している。卑俗な模倣と、陳腐きわまる浅薄な懐疑を超えることもできずに、いたずらに古い時代と古い習俗とを嘲笑する若い人たちを見かけることがある。いったい、彼らは父祖から受け継いだはずの、あの崇高な魅惑的な美質はどこへ行ったのであろうか。

 千年以上もむかしに中国の文明と同化しながら、しかも独自の思考や感情形式を保持している日本は、はたして西洋文明と同化することができるだろうか。ただ一つ、希望を持てる目ざましい事実がある。それは、西洋の物質的優越に対する日本人の讃美が、決して西洋の道徳にまで及んでいないことである。東洋の思想家たちは、機械の進歩と倫理の進歩とを混同するような重大なへまをおかしたり、また、われわれの誇る西洋文明のもつ道徳的弱点に気づかぬようなことはない。

 皮相な見地からすると、西洋流の社会形態は、古くより人間の欲望を自由に発達させた結果、華美と浪費をきわめ、はなはだ魅力的である。要するに、西洋で一般に行われている物事の状態は、人間の利己心の自由な活動にもとづいているから、そうした特質をじゅうぶんに発揮することによって、はじめて到達されるのである。

 一見したところ、西洋文明は、利己的な欲望を満足させるのに適しているから、いかにも魅力的に見えるが、しかし、人間の願望が自然の法則をつくるという仮説を基にしている以上、究極するところそれは、失意と堕落に終わるにちがいない。……西洋諸国は、最も深刻な闘争と幾多の消長をへて、今日の有様となった。だから、闘争をつづけるのが、彼らの運命なのである。

 西洋かぶれの日本人は、自国の歴史を、西洋流に書くつもりでいるのか。彼らは、本気で自分の国を、西洋文明の新しい実験の場にしたいと考えているのであろうか。

 

 130年前、日本に魅せられて帰化した外国人の心配が、あたかも現実になってしまったのす。

 

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