2023年7月3日月曜日

祖母の呟き

  タイタニック号の観光・潜水艇―タイタンの事故で生存者救出が絶望になったという報道を聞いたとき「バチが当たったんや」という祖母の呟きが聞こえたような気がしました、聞こえるか聞こえないかの小さな声でしたが。

 

 5月の連休の2週間、肺炎で寝込んでいましたがその間もお仏壇のお世話は欠かすことはありませんでした、仏間と寝室が同じという事情はありましたが。クリニックの医師の適格な治療のお陰で重篤にならずわずか10日で快癒したのですが、心のどこかで「先祖のご加護があったのかも」という気持もかすかにありました。毎朝お仏壇を開けてお水を新しくしお花の水替えをして般若経を唱えるだけですが何十年も欠かしたことがありません。ルーティンで昨日のお水を庭に撒くのですが、これはお仏壇にお祀りできていないご先祖さんに差し上げるんだと子どもの頃祖母に教えられました。浄土宗ですから仏壇には3代か4代前からのご先祖の御位牌が祀ってありますがその方たち以外に何代ものご先祖さんがあって今日の我々がいるんだということを祖母は教えてくれたのです。墓参りに供える水塔婆にも「市村家先祖代々」と書かれるのもそのあたりの事情を含んでのことです。われわれ世代は親や祖父母、親戚の長老方に「先祖祀り」について幼い頃から吹きこまれて育ちましたから先祖に対する考えは大体共通していますが今の若い人たち、いや相当年輩の50、60代でも「先祖」というものへの信仰はうすくなっているように感じます。そしてそれはわが国だけでなく世界共通の、少なくとも先進国では明確に「宗教心の劣化」となって表れています。

 

 タイタンの事故の一報に接したときに覚えた違和感は旅行代金が3千5百万円という高額なことだけではありませんでした。タイタニック号の事故で亡くなられた約1600人は死者として葬られることなく3800メートルの海底に110年以上置き去りにされている、いわばその「聖地」を「物見遊山」するという「無神経さ」「見識のなさ」というか「不遜さ」、そして金さえあれば何でも許されるという「強欲さ」に対する怒りに似た感情が強くありました。死者は荼毘に付して埋葬する、それが長い人類の歴史を通じて守られてきた死者に対する生者の責務でした、土葬や水葬、鳥葬という形式をとることもありましたが。生者が責を果たさなければ死者の霊が正しく解放されないからです。現代社会にあって「霊」の存在を信じている人がどれほどいるか、先進国ではほとんどいないかもしれません、理性では存在は証明できない、だから信じていないけど、だからといって絶対に信じていないと言い切れる人も本当のところはそんなに多くはないのではないでしょうか。死者を粗末には扱えない、そんな「畏怖の念」をもっているのも「死」が肉体の死滅だけでなく肉体でないもの――「肉体」と「霊」が不可分なものとしてあるから死者を丁重に葬ることで「霊」も迷うことなく「肉体の死」に殉じてほしい、そんな祈りが人間の心の奥底にひそんでいるのではないでしょうか。

 タイタニックの死者は腐敗して分子分解して土に還ったか水中に浮遊したか、肉体は存在していませんが「霊」はまだ葬られないままにある。祖母ならそんな考えをもったにちがいありません。私の中に生きている「祖母的なもの」がそう考えて「バチが当たったんや」と呟いたにちがいありません。

 

 同じようなことは他にもあります。たとえば「硫黄島」です。激戦地硫黄島は日本兵と軍属が全滅したあとアメリカに占領され整備されて飛行場として供用されました。土中に死体が眠っているかもしれない地面をロードローラーが圧し固めアスファルトで塗り込められたのです。飛行場の下には死者が閉じ込められているのです。

 昨年出版された滝口悠生の『水平線』は戦況が激化して強制退去させられた硫黄島出自の元島民の孫が祖父母世代の死者とスマホで繋がって、それぞれの相手(らしいと思われる存在)と再会しようとする小説ですが――昨年の小説ではトップ3に入ると評価しています――なかで 国主催の慰霊巡拝事業に応募して島を訪問します。慰霊塔を参拝するのですがそこに祖父が祀られているかどうかも分からない、そんなぞんざいな死者の扱いを許した日本政府(アメリカは当然ですが)に対して関係者だけでなくわれわれも怒りを覚えずにはいられません。

 

 死者の霊の弔いという意味では「靖国神社」という存在も再検討されるべきです。靖国神社は明治維新に新たな国家創建に尽力され生命を捧げられた人々の御霊を鎮魂するために明治天皇が建立された「招魂社」に淵源があります。そして戊辰戦争以降第二次世界大戦に至るわが国の戦争に殉じられた死者の御霊がここに祀られているのです。問題なのは靖国神社が国家神道の中の一つの神社だということです。死者には国家神道に祀られることを望まない方々も多く存在します。同じ神道でも出雲系もあれば八幡さん、お稲荷さんもあります、仏教の信者も多いことでしょう。キリスト教の信仰者も少なくないでしょう。それが「靖国神社」に祀られるということは果たして「死者」の慰霊という願いに適っているといえるでしょうか。靖国に祀られている「霊」は安住できているでしょうか。

 

 昨今「お墓」にまつわる議論が盛んになっています。「墓じまい」して駅近のマンション型お墓やロッカー型の納骨堂に移霊する人も少なくないようです。しかし「先祖」というものを真摯に考えているかといえばどうもそんな深い考えをめぐらした結果ではないようです。「終活」も盛んですがこれも「自分」だけのことで「先祖」や「死」と真剣に向き合ってのことではないように思います。

 「どう生きるか」ばかりで「死」を考える余裕がないのでしょう。当然のことながら「霊」に考えが及ぶはずはありません。若いうちはとにかくいい齢になったら一度立ち止まって「死」と「霊」について考えるのも必要なのではないでしょうか。

 

 

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