2023年6月26日月曜日

くずし字で「百人一首」を楽しむ

  「晩年の読書」をはじめるに当たって、展覧会に出品されている掛け軸や色紙の字が読めるようになりたい、という大きな目標がありました。美術展や書画展が好きでよく行くのですが絵巻物や掛け軸、色紙、扇絵や屏風絵に書かれている字がまったく読めないことを恥ずかしく思っていました。外人さんが傍にいるときなどひょっとして質問されたらとヒヤヒヤもので身を竦ませることもありました。ちょっと上の年代の人――戦前に小学校を出た先輩たちは全員ではないけれど、でも大体の人が読めるのに比べて戦後教育で育ったわれわれ年代以降の人たちは相当高学歴の人でもほとんど読めません。それは先輩の層が国民学校出の人でも読めるのと好対照です。おまけに彼らは「つづけ字」を造作もなくスラスラと書くのです。意外な人の達筆に驚かされるのです。彼我の差は「お習字」でしょう。国民学校初等科の6年間、いやそれだけではありません、学校に上がる前からもお習字は各家庭で「しつけ」とされていましたから8年以上は「手習い」しているのです。楷書、行書、草書と「字体」を、臨書――上手な人のお手本を「まね」して修得します。王義士や小野道風だったり百人一首の札絵のこともあったでしょう。とにかくお手本通りに、繰り返しくりかえしお習字するのですから下手であるはずがありません。それにひきかえ我々時代は習字は高学年になって週一回で当用漢字の楷書のまね事でお茶を濁した程度ですから「くずし字」の読めるはずがなくて当然なのです。

 

 そこでまず「原典」――漢詩と古典の学習から「晩年の読書」のをはじめたのです。5、6年経って、70才を前にソロソロ字の勉強をやろうかと思ったとき、運が良いというかちょうど角川学芸出版が『古文書入門 くずし字で「百人一首」を楽しむ(中野三敏)』を発行したのです(平成22年11月2010年初版)。早速手にとってみるとこれが手強い代物でした。見開きの右ページにくずし字の写真、左ページに読み下し文、解読が配置してあるのですが「くずし字」はまったく読めません。巻末の「くずし字一覧表」を見るとほとんどの字が二つ以上の「元」字をもっているのです。「き」は「幾、支、起」、「す」は「寸、須、春、寿、数」と5個も元字を持っているのですから修得は並大抵ではありません。「る」に至っては「留、類、流、累」とあってほとんど「る」の姿は見えない「くずし」過程です。

 一読しましたが早々に退散しました。

 

 それから十年。八十才を超えた昨年、『古今和歌集』を窪田空穂の評釈(全集第20、21巻)で一首づつ精読してみようという企てを起こしました。読み進めるうちに古今集の奥深さが知れ、おもしろさがいや増して最初予想した退屈さや面倒くささはまったくなく、9ヶ月が過ぎて読了したときにはこんな読書の仕方があったのかと古典学習が楽しくて、後半の人生は古典の精読を最大のテーマとしていこうと決心するに至ったのです。そうなってみるとやっぱり「原典」――色紙や扇絵、屏風絵に書かれた実物を読んでみたいという意欲が湧いてきます。そうだ『くずし字で「百人一首」を楽しむ』をもう一度読んでみよう、と計画しました。しかしやっぱり修得は簡単にはいきません。ところがあるとき「書いてみよう」とヒラメきました。一首のなかでもっとも読解が困難な「くずし字」を3、4個抽出してその元字とくずし方を書いてみる、そして一首をまるまる「手習う」という作業を毎日一首必修にして繰り返しました。そうするとどうでしょう、ただ読んでいるだけではほとんど習得できなかった「くずし字」が百首読み書きするとなんとか読み取ることができるようになったのです。まだ一回だけですが目途がつきました、今年中にあと二回は百人の歌を読み書けるでしょう。それだけ繰り返せば相当習熟できる可能性が見通せます。

 頑張ってみようと思います。

 

 もうひとつ「書く」ことをやっています。図書館で専門書を借覧することが多いのですが借り物ですから赤線もドッグイア(折り目)も付けられません。仕方なく「付箋」を貼って読後、読書ノートをパソコンで作っていたのですが今年からそれを止めて、読みながら必要箇所をノートにメモするようにしたのです。中でも更に重要なポイントにはノートに赤線を引いておくと、読後にその部分を読み返すと理解がこれまでより何倍も深まります。もちろん読む速度は遅くなりますが別に急ぐ必要もありませんからこれで十分です、むしろ読んだものが身につきますから読書の価値はこちらの方がずっとあるうえに、字が上手になった気がします。おまけに手書きすると正確を期しますから字典――漢和字典と古語辞典を引くことが多くなりましたしスマホ時代ですからちょっとした疑問もスマホ検索する習慣ができたのは上々の首尾です。

 

 そうです、今やスマホとパソコンの時代ですから「書く」という動作、作業がどんどん不要な時代になっています。しかし「書く」という行為には、ただ「写す」という作業、価値以外にもっと多面的な機能・価値があるのではないでしょうか。人類が文字を手にしてから5、6千年経ちますが、この間に頭脳、記憶、思索・概念操作などと「書く」という作業に重要な相互作用ができている可能性があるはずです。「書く」ことで人間の知能は飛躍的に進歩したかもしれません。それがパソコンとスマホのせいで「書く」機能が退化してしまうと人間にとって致命的な欠陥がおこってしまう可能性はないでしょうか。

 

 折りしも京都大学医学研究科が「漢字の書き取りが得意ならば、文章もうまい」という研究結果を発表しました。中学生と高校生の「書字」と「文章作成」の検定成績を分析した結果、「読める」だけでは文章作成能力は上がらず、「手書き能力は文章作成に独自の影響力があり、代替できない」と結論づけ国際学術誌にオンライン掲載したのです。そして「チャットGPT」などの生成AIが急速に普及している現状に警鐘を鳴らしています。

 

 京大の研究は「書く」能力と「文章作成能力」に限定してその関連を証明しましたが研究が進めばもっと多方面な影響が明かになるのではないでしょうか。ひょっとしたら認知症と重要な関係がある、とか……。

 

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