2023年6月19日月曜日

『草枕』を読む

  『草枕』(夏目漱石著岩波文庫)を読みました。これでもう何読目でしょうか。裏表紙をみると

平成21年3月27日読了/年を取って少しは分かった(2009年)

平成30年2月5日再読/滑稽味が少しは分かる(2018年)

2022年6月9日三読/読むたびに味わいが変わる。少しは読めるようになった

2023年6月16日四読/また少し分かった。久一が戦争に行く、那美さんの前の亭主が満州に行く。そこにこの小説の新展開を見た。

とあります。しかしこれは60才を超えて「晩年の読書」を始めてからの履歴ですから最初に読んだのは多分高校2年ころだったと思います。教科書に冒頭の「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。」という一節が載っていてそれに惹かれて読んだのですが二十才にもならない若造にこなせるような代物ではありませんからまったく理解できませんでした。とりわけ「漢詩」がチンプンカンプンで情けなかったことを痛切に覚えています。そんな体たらくだったのになぜかこの小説をその後も大事にしてきたのは、小説とも随筆とも文明時評とも言えないそれまで経験したことのない「つくり」に魅力を感じたせいだったと思います。

 

 20代30代とそれぞれの年代で一度は読んだように記憶していますが、60代になって「晩年の読書」をはじめるにあたって、とにかく『草枕』が読めるようになろう、というのが目標のひとつになったのはまちがいありません。漢詩と日本の古典文学に挑戦したのもそんな目論見があったからです。古典は古事記、万葉集、方丈記などわずかしか読みませんでしたが、漢詩は李杜をはじめとして白楽天、陶淵明など10人近い個人集とともに中国名詩選など相当幅汎く読みました。それは当時NHK教育テレビの早朝に石川忠久氏の「漢詩を読む」という番組があって、漢詩の読解はもとよりNHKの資金力にものを言わせた贅沢な現地撮影の映像がすばらしくて録画にとって勉強したことの影響が大きかったと思います。どれだけ読もうと白文を読み下す能力はいまだに未熟なままですが漢詩の魅力は尽きることがありません。それは岩波新書『新唐詩選』で出会った三好達治の力が大きかったと思います。共著者の吉川幸次郎氏の訓詁学の則を超えない端正な解読とは対照的に文学者らしい詩情を重視した訳を読んで中国人の心底にある凛冽な感性を知って漢詩の認識を一変させられたのです。

 

 漢詩についてはもうひとつ画期がありました。晩年の読書にとりかかった最初の文学は森鴎外でした。漱石はまがりなりにも友人との文学談議に困らない程度には親しんでいましたが鴎外は「敬して遠ざけ」てきましたのでまずは鴎外から始めようと「ちくま文庫」を中心に系統立てて読みました。彼の後期の「史伝」は衝撃でした。丹念な資料渉猟と読み込みには驚かされました。歴史資料に対する文学者の姿勢としては司馬遼太郎が世上評価されていますがさかのぼること半世紀以上前に鴎外という先達がいたことを知って己の浅学を愧じるばかりでした。

 鴎外の次に挑戦したのは永井荷風でした。世に漱石派と鷗外派がありますが荷風は鴎外を終生師と仰いだ作家ですから流れとしては自然です。しかし鴎外とは異質で、何を書くかよりもどう書くかをを優先した執筆態度は樋口一葉に導いてくれました。鴎外も漱石も称賛を惜しまなかった一葉の「名文」を堪能することができたのは荷風のお陰で、以降それまで偏見でそれほど読んでこなかった女性作家の作品を読むようになりました。その傾向は今につづいており、最近15年ほどは新刊小説は女性作家のものが圧倒的に多くなっていますがそれは文章力が断然女性作家が優れておりテーマの迫真性も男性作家をはるかにしのいでいるからです。角田光代、川上未映子などの作品は現在を知るもっとも有力な手がかりになるものばかりです。

 それはさておき荷風で特筆すべきは『下谷叢話』に出会ったことです。作は荷風の外祖父鷲津毅堂を頭初に据え江戸漢詩人の系譜を描いた一種の史伝ですが荷風の他の著作とはおもむきを異とした重厚、難解な作品です。この作もとても一読で手の内にできるものではありませんから再読、三読しましたが江戸後期の知識人のネットワークの豊かさと詩人たちの感性、表現力の熟度に瞠目されました。しかし考えてみれば迂闊な話で、古来わが国の文化の中枢では漢文漢詩が主流で記録などの公文書はもとより文学としても知識人は漢詩の素養が第一等でありつづけたのです。教科書的には江戸時代は俳句と近松、西鶴が代表しているように教えられましたが、道真以来連綿と歴史を重ねてきた漢詩が江戸期に爛熟していないはずはなく、そうでありながら漢詩が文学の対象と認識されていない現状は何とも奇異な感を抱かずにはいられません。市井の一老書生にすぎない私のようなものでさえそう思うのですからわが国の一部で漢詩に対する需要がないはずがなく、2021年に岩波書店から揖斐高編訳『江戸漢詩選』が上梓されたのは当然のことです。昨年半年をかけて上下二冊を読破したときの充実感は格別でした。

 

 こうした江戸漢詩の知識は早速『草枕』を読むのに役立ち、八章(p104)の

 上に春水の字で七言絶句が書いてある。/「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書は杏坪の方が上手だて」/「やはり杏坪の方がいいかな」/「山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、一向面白うない」

という件で春水、杏坪、山陽の関係性が彷彿として――山陽の父が春水、叔父(春水の弟)杏坪、山陽がそこにいるような臨場感をもって読むことができ、那美さんの父、観海寺の和尚、与一そして主人公の青年画家の談話にリアリティが出てきて感興が盛り上がりました。

 『草枕』はこちらの知識・情報の多寡によって読み応えがまったく異なってくる小説で、何度も読み返すのはそれまでの自身の読書生活と思索の深まりを判定する「メルクマール」として絶好の著作であると考えているからです。

 

 今回最終章で与一が海外へ出征、那美さんの前の亭主が満州へ一旗上げにいく展開でこの小説を終えようとした漱石の思惑に発見がありました。大天才夏目金之助が英国留学に挫折し松山での教職を経て処女作『吾輩は猫である』を執筆したのが1905年、『草枕』は明治39(1906)年の作です。日露戦争(1904年~)の終戦が1905年ですから明治政府の方向性が大転換する時期に当たって官僚志向から文学者に方針転換した漱石の、またわが国の先行きへの不安がこの終章に込められているように読みました。

 

 『草枕』は近代文学揺籃期の漱石試行錯誤の作ですが、明治期の偉大なる知識人漱石の「原質」が剥き出しになっているだけに現代人の我々にとってなんとも峻厳な小説でありつづけることでしょう。

 

 

 

 

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