2023年7月24日月曜日

貧しさについて

  六月下旬、何の前触れもなく京都市から「京都市くらし応援給付金のご案内」という郵便物が届きました。開けて見ると「食料品等の物価高騰が続く中、京都市では、住民税非課税世帯等に対する生活支援として、1世帯当たり3万円を支給します。」とあり「手続きは、必要ありません。令和5年7月下旬を目途に、京都市からオモテ面の銀行口座に、振り込みを行います。」という説明がありました。(口座は年金振り込みと同じ口座です

 住民税非課税世帯とはおおざっぱにいって前年の合計所得金額が135万円以下(給与所得に換算すると年収204万4千円未満、年金のみの場合は若干年収が変わります)の人になりますから普通のサラリーマンで年金生活者になった人は大体非課税世帯に相当するでしょう。

 非課税世帯を「貧困世帯」とするのは心苦しい面もありますが支給の趣旨から考えると行政はそう認識しているのでしょう。もしそうなら年金生活者を一括りに「貧困」と見なすのはいかがなものでしょうか。私はさておいて周囲の年金生活者の多くは決して「貧困」ではありません。それなりの学歴のある人ならソコソコの会社に勤めて十分な所得と退職金を得て安定した老後を送っています。家庭の事情で義務教育で社会人となった人たちも当時は就職した会社に技能習得のための学校があって1年から2年そこで学んで基礎学習・技能とその会社で伝承すべき特殊技能を修得して、主に現場の専門職としてほとんど高学歴者と変わらない待遇で定年を迎えています。従って多くの人は持ち家でローンの返済も終わっていて贅沢しなければ食うに困らない年金を得て「悠々自適」の生活をしていると推察して間違いないでしょう。

 こう考えてくるとわれわれ世代は恵まれていたといえますし、また会社も働く人に対して厚い待遇で処する余裕があった時代でもあったのです。

 

 最近『羊飼いの想い』(ジェイムズ・リーバンクス著濱野大道訳早川書房)という本を読みましたがそのなかにこんな一節がありました。

 彼ら(主人公の祖父、親の世代の人たち―筆者注)のアイデンティティは、店では買えないもので成り立っていた。みな古い服を着、必需品を手に入れるためにごくたまに買い物に出かけたが、「市販品」に大きな軽蔑を示した。クレジットカードよりも現金を好み、壊れたものはなんでも直し、古くなったものを捨てるのではなく、いつかまた使うために保管した。お金のいっさいかからない趣味や興味があり、ネズミやキツネを捕らまえるという生活に不可欠な作業を娯楽に変えた。彼らの友情は、仕事にくわえ、自分たちが飼う牛や羊の群れによって築かれた。めったに旅行には行かず、新しい車を買うこともなかった。かといって、仕事がすべてというわけでもなかった。多くの時間が農場にまつわる活動に費やされ、それは共同体のなかでのんびりと行われた。あるいは、たんに野生の自然を愉しむことに時間が費やされた。私の祖父は、そのような生き方を「静かに生きること」と呼んだ。

 

 今「貧困」とされている生活レベルは「消費能力(=所得)が劣っていること」を言っているのです。『羊飼いの想い』の祖父・父世代はほとんど「消費」しないで生活しています。かと言って彼らが「貧困生活者」かといえば、少なくとも当事者は決してそう思っていないしむしろ「消費しない生活」に誇りをもっていて、「市販品=消費される商品」を軽蔑してさえいます。

 

 コロナ前と後で随分生活態度が変わった人が多いのではないでしょうか。「前」はとにかく消費が生活の中心でした。ショッピングにグルメに旅行にと「買う」ことで生活を満たしていましたし、商品が溢れていました。ところがコロナはそうした生活を「強制終了」したのです。特に高齢者にとってコロナは生活圏を自宅の半径500メートルに制限しましたから、「歩き」かせいぜい自転車で移動できる範囲で、可能なかぎり人的接触をしない生活を余儀なくさせたのです。多くの高齢者はどこかに「身体的不具合」を抱えていましたから「診療・治療」という「消費」が生活に必須でしたがこれさえも高齢者は「控え」ざるを得ない状況に追い込まれたのです。

 不思議なことにあれだけ頼りにしていた「医者通い」が、用心と衛生習慣(手洗いうがい、マスク)で不用になったのです。消費生活を奪われた結果、楽しみと充実を求めて「工夫」せざるを得なくなった人たちは「お金を使わない楽しみ」を自分たちなりにつくったのです。わざわざ出かけなくても身近なところに桜も紅葉もあることに気づきました。高価な料亭で会食する代わりに自宅に友を呼んで奥さんの手料理を楽しみながらする談笑の楽しさを発見しました。新しいファッションは買わなくても手持ちの衣装をやりくりすればオシャレもできるのです(その分いいものを大事に使うことが求められますが)。

 

 「流通」する商品を消費する経済から「ストック(貯蔵)」を活用する生活へ大きく日常が変わったのです。消費のためには「所得」が必要ですが「ストック=あるもの」を活用する生活は所得が要らないのです。「お金」に代わって「知恵」が大事になったのです。少なくとも高齢者はストックがありますからこんな生活も可能なのです。

 

 問題は「成長」のためには「消費」が不可欠なことです。絶えず消費を続けないと成長できないのが「資本主義」という経済システムです。成長できないと「福祉」もできないのが現在の経済システムなのです。そのために無理して「消費の範囲=商品」を広げざるを得ませんでした。「教育=学校」「医療=病院」までも規制改革して「商品化」したのです。「公共交通」も「インフラ=電気、ガス、水道」も「商品化」したのです。また「見せかけ」の成長を大きくするために「医療」の価格を途方もなく高いものにする国も現れました、そうアメリカです。アメリカの医療費が高いのは軍事以外に主要な産業のないアメリカが医療を中心産業にするために「底上げ」する手法が「高額医療」というテクニックなのです。(同じ医療を日米で比較してみればその差は歴然としています)

 

 貧しくても「豊かな生活」が送れる――こんな社会は資本主義では「不可能」だし「悪」なのです。岸田さんの「新しい資本主義」ということばを聞いた時、この難問に答えてくれると期待したのですが期待外れだったことはスグに分かりました。残念です。

 

 

 

 

 

 

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