2013年6月17日月曜日

科学報道のあり方について(再考)

和歌山県の串本に釣り船と泊まりの仮小屋を持って釣り三昧を楽しんでいた友人がいる。ところが東北大震災以後、南海トラフの被害想定データが次々と公表になり危険が喧伝されたためすべてを手放してしまった。最近久し振りに串本へ行ってみると駅前の賑わいがすっかり影を潜めていてショックを受けたと語っていた。公表に関わっている政府や省庁、マスコミはこうした事態が全国各地で起こっているかも知れない、ということを検証しているのだろうか。
 一方で地震の「安全宣言」をした地震学者が宣言後に大地震が起こり被害を被った地元民から訴えられ有罪になったイタリアの例もある。
 
2011年の3.11東北大震災以降地震報道がすっかり様変わりした。地震学の権威が根底から失墜した反動かそれ以前の比較的安全に傾斜した報道と打って変わって、想定される最大被害を前面に出して防災減災の緊要性を訴える。メディアの報道姿勢は関係機関の公表データを垂れ流すばかりで、検証や批判がほとんどない。従って科学の知識のない一般市民は拠り所のない不安に追い込まれるばかりで串本のような結果を招いている。政治はこれに乗じて「国土強靭化計画」などとまたぞろ「土建国家」の再来を目論んで選挙利用しようとする。

我々はまだ『科学万能』という幻想を捨てきれないでいるのか。東北大震災で証明されたように『津波の予想』も『原発の安全性』も今の科学では保証できないではないか。「ビルの屋上からティッシュペーパーを落とした場合、どこに着地するかの予想は今の科学では不可能だ」と中谷宇吉郎は科学の限界を諭している。それでは科学とはどんなものなのだろうか。『科学の方法(岩波文庫)』で彼は凡そ次のように述べている。
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則を探求する学問である。しかし科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。加えて自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。複雑だということは、単に要素が多いということだけではない。分析と綜合の方法がきく範囲が狭く、その奥に、従来の科学の方法では扱えない領域が、広く残されているということである。従ってその中から、われわれが自分の生活に利用し得るような知識を抜き出していくのである。科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役だつように見た自然の姿が、すなわち科学の眼で見た自然の実態なのである。幸いにして自然界には、再現可能の原則が、近似的に成立する現象が多いので、そういう現象が、科学の對象として、取り上げられている。その再現可能の原則が近似的にあてはまる現象の一つの特質は、「安定」な性質である。ところが破壊現象では、極微の弱点が重要な要素として、現象を支配する。前の定義でいえば、不安定な現象である。こういう不安定な現象は、現在の科学では、その本質上、取り扱いかねる現象である。
科学を考える急所は問題の出し方にある。問題の出し方といえば、もちろん人間が出すのである。それで自然科学といっても、けっきょくは自然だけの科学ではないので、人間との連なりの上において存在する学問なのである。自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである。自然科学は、人間が自然の中から、現在の科学の方法によって、抜き出した自然像である。自然そのものは、もっと複雑でかつ深いものである。従って自然科学の将来は、まだまだ永久に発展していくべき性質のものであろう。
 
 地震は不安定な現象であり本来科学に馴染みにくい領域にある。いくつもの『限定と仮定』の付く学問である。メディアはその限定と仮定を読み解いて市民を啓蒙する責務を負っているのである。

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