2016年11月7日月曜日

坂の途中の家

 角田光代の『坂の途中の家』は現代人の精神状況を「幼児虐待」と「裁判員制度」を題材に心理サスペンス風に描いた佳作である。
 
 里沙子が思い浮かべた順風満帆というのは、何もかもが思い通りになってきたという意味とは異なった。大きな挫折もなく、絶望もなく、重大な決意もなく、なんとなく日を送っているだけで充分たのしく生きてきたのではないか、そしてそういうことを順風満帆というのではなかろうかと思ったのだった。子どものころから友人に囲まれて、運動も勉強も平均程度にはできて、第一志望の大学に入れなかったとか、思うようなところに就職できなかったとか、そういうことはあったとしても、逃げ出したくなるようなこともなく生きてきたのではないか。
 こんな女性は幾らでもいるのではないか、いや女性ばかりでなく男性も。
 
 そんな女と男が結婚して、やがて赤ん坊が生まれて…。
 自分で想像していたより二百倍はうれしかったと、陽一郎はそんな表現をしていた。友だちの家の赤ん坊を見にいくと、どっちに似てるなんてぜんぜんなくて、ただの「赤ん坊」にしか見えなくて、目がぱっちりしているとか、口がおとうさんそっくりとか言い合っている友人たちを、お世辞がうまいやつらだとしか思わなかったんだけれど、うちの子を見たら、もう顔がまったく違うってそのときはじめてわかったんだ、こんなにかわいい子が生まれちゃったよ、どうしようって思ったのだと、いつか陽一郎は話したことがあった。
 赤ん坊が眠りこんで陽一郎がまだ帰ってこない時間、ふと部屋を眺めまわして、なんて汚い部屋なんだろうと、はじめて見た場所のように思う。しかしその汚さは目を覆いたくなるようなひどいものではなくて、深く重い安心感でこちらを包むような種類のものだった。なんだろう、この感じ、と里沙子は思い、煮込みすぎて野菜が形状を失いどろどろに溶けてしまったカレーがまず思い浮かんだ。/生活か、と里沙子はそのとき思った。これが生活丸出しの状態か、と。その言葉をあてはめてみると、とたんに散らかりきった汚い部屋が、そうあってしかるべきものに見えた。
 
 実家の親とは絶縁状態のようなかたちで東京へ出たから結婚式にも出席してもらえず、義父母ともうまくいっていなくて、夫の協力はあてにできず、子育てをひとりでしょいこんだ里沙子はどんどん追い詰められていく。そんな里沙子が裁判員制度の「補充裁判員」に選任される。しかも対象事件が「幼児の虐待死――生後数ヶ月の幼児を浴槽に落として殺害した」育児ストレスの絡んだ事件という里沙子の状況にあまりにも酷似したものであった。当然のように里沙子は被告人の水穂に自分を投影してしまう。暴力的な夫と習字教室の教え子と比較する義母に追い詰められる水穂の心理状況はそっくり里沙子とオーバーラップする。
 「水穂の言うことは、被害妄想でも思いこみでもない、夫や義母や同じ母親たちの、本人たちでさえ気づかないちいさな悪意を、防御もせずに実際に受けていたのだと里沙子は主張したかったし、必死になってしてきたつもりだった。」
 正常な精神状態の時には気にもならなかった他人の言葉のいちいちが心をざらつかせ、キリキリと突き刺さってくる痛みがいつの間にか逃げ場のない極限状態に追い込んでしまう。子育てもできない常識のない嫁―娘というレッテルを貼られるのをおそれてひるむ水穂(=里沙子)は、やっと自分のこれまでの生き方――人生のそれぞれで行ってきた選択の結果としての今に気づく。
 本来いるべき場所におらず、決めるべきことも放棄して、気楽さと不安を覚えながら動こうとしない、このなじみ深い感覚、これは、学生時代に授業をサボったときのものではない、もっともっと幼いころから自分がやってきたことだ。何が窮屈なのか考えることをせずに、ただ母のよろこびそうな話題だけ口にし続けていた。窮屈さの原因が何か考えず、ただひたすらに逃げた。考えることからもまた、逃げた。(略)きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない、私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。/そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。(略)考えもせず決めもせず、だれかに従うことは楽だった。たしかに、楽だったのだ。
 その結果「里沙子は愕然とする。こんなに何も持っていないなんて。陽一郎が巧妙に奪い取ったと言うこともできる。どこにも逃げられないように。でもそれは、みずからおとなしく捨て去ったのと同義だ。自分の足で立たなくともすむように。」
 
 子を授かってはじめて分かった母親の「愛を装った支配」、夫のあいまいなやさしさに秘められた「強いられた従属関係」。
 そうだった。里沙子は続けざまに思い出す。母は、娘に追い抜かれることをおそれていた。あのときはわからなかった。そんなこと、思いつきもしなかった。だって母はいつも味方だった。
 まさに、おとしめるためだけに、母は言っていたのだ。その言葉に娘が本気で傷ついているあいだは、娘は自分よりちいさな存在であり続けるのだから。(略)憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから、あれがあの母親の、娘の愛しかただった。/それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ―。
 
 自分の価値観が絶対で相容れない他人を排除する風潮がはびこる今、愛のかたちが見えてこない。
 
 
 

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