2014年9月8日月曜日

残軀

 最近『残軀』なる言葉に出会った。一読、何と残酷な言葉だろう、と感じた。既に齢70を超えている身にとって「老残」と思わせられることが決して少なくない昨今、「残されたからだ」という響きは酷いほど実感に近い。しかしこの語は広辞苑にも漢和辞典にも載っていない。そもそもこの語を知った「笹まくら(丸谷才一著)」を読み進むと、宇和島にある伊達家五代当主春山の造った「天赦園」の由来書きに初代政宗の五言絶句がありここに出自を見た。
 馬上少年過/世平白髪多/残躯天所赦/不楽是如何(馬上、少年として過ごす。世平らにして白髪多し。残軀 天にゆるさる。楽しまざれば、これいかに)。大凡の意味はこうなろうか。若い時代は戦に明け暮れいつも馬上にあった。しかし世は定まり老いた私の髪には白髪が目につくようになった。今ここに残された我が体躯は天の赦されたものであろうか。もしそうならしっかりと楽しまなければ勿体ないではないか。
 政宗の詩には日本人には珍しく人生謳歌が詠われているがしかしどこかに「身を律する」という倫理観が残っている様に感じる。
 
 そこへいくと中国人はあっけらかんと放縦に人生を楽しもうという姿勢が鮮明にある。たとえば陶淵明の次の一節などその典型だろう。
 盛年不重来/一日難再晨/及時当勉励/歳月不待人(盛年セイネン重ねては来たらず、一日再び晨アシタなり難し、時に及んで当マサに勉励すべし、歳月人を待たず)若い時は二度とは来ない。一日に朝が二度来ることはない。時をのがさず十分に歓楽を尽くさなくてはいけない。年月は人を待ってはくれないのだから。(陶淵明・雑誌十二首、其の一より、石川忠久訳)。
 
 今のわが国では70歳を超すとほとんどの人は企業社会からは引退せざるを得なくなる。年金と貯蓄で暮らすのが普通で利子所得を得て暮らす人も少しは居るだろう。いずれにしても年金や利子所得に対してはどこか気が咎めるところがあり若い人たちに申し訳ない気もある。恥ずかしながら少し前まで、年金は自分の貯めたもの(厚生年金として給料から天引きされていたもの)が分割して支払われるものと認識していた。それが年金問題が起こったことで「賦課方式」で現役の若い人たちの負担で年金が支払われていることを知らされた。その若い人たちが厳しい雇用情勢の中にあり、不安定で低賃金と過剰労働にサラサレテいることが報道されると、それに知らんプリしてヌクヌクと年金を頂戴しては申し訳ないという気持ちに襲われる。
 テレビで「いいこと」を言っている後期高齢者と思われる人たちが『年金辞退』を申し出れば少しは世間も変わろうと思うのだが一向にその気配がない。それどころか逆に「集団的自衛権容認」だとか「原子力発電再稼動」など若い人の負担をを言い立てている。晩節を汚す、という箴言は彼らには無用なのだろう。
 
 残軀に戻ろう。徴兵忌避者という反逆から終戦によって解放され、生還して日常に復帰する。二十年という歳月を経て些細な事件が綻びとなって、営々と築きあげてきた平凡な日常生活が破滅に転落していく。現在と過去、過去の前と後、それが段落もなく綯い交ぜになって展開していく文体は絶妙で読むものを飽かせない。砂絵屋という香具師に身を窶し放浪する過程での年上女との恋愛、身の秘匿が晒されることへの不安。解放後の日常が、堅固であったはずの砦がひとつひとつ崩れるていく不安。重層的で技巧を凝らした構成がじわじわと終末に向って展開していく巧みさ。まちがいなく「笹まくら」は丸谷文学の傑作である。
 徴兵忌避という体制批判を実行する勇気、これを今に置換すれば何を為さなければならないだろうか。
 
 「無限定な職務と過剰労働時間」がわが国の仕事のあり方だとすればそれを「限定した職務と定時間労働」に移し変えれば新規雇用が相当増加し残業が無くなるに違いない。そうすれば若年失業や女性労働の「M字カーブ」は解消されるだろう。日本型雇用の改変や少子化対策が改造内閣の重要課題だが、その前に「働き方の抜本的見直し」が成されなければ実効性は低い。
 現体制の根本的批判はここにあると思う。

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