2014年9月1日月曜日

労働と社会

  近くのビール工場跡の再開発が軌道に乗って10月半ばには西日本最大といわれるSC(ショッピングセンター)が開場する。その新規雇用が2千人とも3千人とも言われそのせいで近隣のアルバイト状況が「売り手市場」になって時給が随分上がっているようだ。こうした情勢はこの地域に限ったことではなく全国的な傾向で特に建設、物流関係の人手不足は深刻になっており、僅か1年ばかり前とは大変な様変わりである。大企業の対応は迅速で派遣や長期アルバイトの正規雇用化に踏み出した企業も少なくない。

 

 こうなってくると少し前まで盛んに言われていた「雇用の多様化」や「雇用の流動化」は何だったのだろうと思ってしまう。

 「多様なニーズに対応した選択肢を提供することで働く人の希望に応える」という美辞麗句のもとに「正規雇用」を「派遣、アルバイトなど」の非正規雇用に転換する人事政策が強引に推進されてきた。その結果非正規雇用が3割を超える雇用状況になり企業のコストは大幅に改善、期間収益の史上最高を更新する企業が連日マスコミを賑わした。ブラック企業と呼ばれる過剰労働を強要する企業も「業績優先」で市場から追放されることはなかった。

 それが掌を返したように派遣社員やアルバイトを正社員や「限定正社員」に移行させる企業が続出するようになってきた。一部の外食企業ではアルバイトが確保できず何割かの店舗が閉店に追い込まれている。
 こうした状況が何故起こったかを考えてみると、上に述べた論理はみな「企業側の論理」であり人を「労働力」や「コスト」としてしかみていない結果であると言える。
 
 しかし働くものの立場から考えてみれば、仕事を通じて自分のキャリアを蓄積し職能の熟練度を高めながら収入を増やし、家庭を安定的に経営し人生を楽しみたい、というのが本音であろう。もしそうなら企業にいる3割以上の人は自分の希望と合わない仕事生活をしていることになり、それらの人は仕事に不満があり職能の熟練度も上がらないから「人生」という視点で見ると決して幸せな生き方とはいえない。企業の側から見ても効率は上がらないだろうし技術の継承やレベルアップに弊害が生じて当然である。
 どちらにとってもデメリットの多いこのような制度が何故「まかり通ってきた」のかは以上の論からも明らかなように「片方(企業)の論理」だけで制度が設計されてきたからだ。企業と働く者を「統合した考え方」に両者が合意できればこうした欠点は修正されるに違いない。
 
 1920年にマックス・ヴェーバーが書いた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にある「労働」についての考え方はこの問題に有効な示唆を与えてくれるに違いない。岩波文庫から引用してみよう。
 確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い。(略)…だから『確実な職業』は万人にとって最善のものなのだ。
 人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、(略)その一部を、神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。(略)財貨が大きければ大きいほど―もし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるならば―神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える。
 禁欲は(略)富を目的として追及することを邪悪の極地としながらも、{天職である}職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵と考えた。そればかりではない。これはもっと重要な点なのだが、たゆみない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲手段として(略)利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまり投下資本としての使用を促さずにはいなかった。
 
 マックス・ヴェーバーは『確実な職業』―いまでいう「正規雇用」―を資本主義成立の最重要事項と捉えその延長線上に利潤の生産的利用として企業家の投下資本を倫理的に容認しているのである。マックス・ヴェーバーの古典的理論を再評価して望ましい「資本―労働関係」を設計する気運に繋がればと願う。

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