2018年5月28日月曜日

卑怯者の時代

 子どもの頃(といっても随分後になって、高校大学になっても)『卑怯者』と呼ばれることを最も『恥』としていた。この心はおとなになってからも「人生訓」として作動して、判断するときやその後で「卑怯でなかったか」と思案したものだった。
 「卑怯」という言葉を辞書で引いてみると、「①心が弱くて物事をおそれること。勇気のないこと。臆病。②心だてのいやしいこと。卑劣。」となっている。私が一番親から卑怯呼ばわりされたのは弟をいじめたときだった、「弱いものいじめをするな。卑怯者のすることやぞ」と。今とちがって年上の子どもと一緒に遊ぶことも多かったから喧嘩になることもあってそんなとき、どうせ負けるのが分かっていたから逃げて帰ったが逃げながら「卑怯なことをしてしまった」と恥ずかしい思いにだれも見ていないのに、顔の赤らむのを感じていた。
 最近フト、「卑怯ということばを随分聞かないなぁ」と思った。
 
 彦根市の交番で部下の巡査が先輩を『うしろ』からピストルで撃った事件の報道に接したとき、「なんという卑怯な!」とまず思った。撃った巡査にはそれなりの事情も背景もあったであろう、彼の中では「必然」の行動であったかも知れない。しかし、それでも、ピストルで「背後」からひとを撃つことは卑怯な振舞いだ。人間として「やってはいけない」卑劣極まる行為である。捜査が進めば隠れた状況が明かにされるだろうが、「背後から撃ったという卑怯さ」だけは消されることはない。
 類似の事件はこれまでも数々報じられてきた。しかし、「背後から」というのだけは無かった。少なくともヤクザの抗争でない一般人の場合「背後から」は絶無であった。これは根本的な『ちがい』と思う。
 
 ここ数週間連日報じられている「日大アメフト部員の危険反則行為」も同様だ。ボールを持っていないQB(クォーターバック)を背後からタックルした反則は『卑怯』そのものだ。動画を見れば分かるように、彼、QBはパスに失敗して「しまった!」と天を仰いで脱力してうしろに体を倒し気味にしている。これがもし、うつむき加減に前屈みになっていたら重篤な「脊髄損傷」を来たしていたにちがいない。天恵の一瞬であったればこそ「全治三週間」の「軽傷?」で済んだのだ。
 この反則が監督(ヘッドコーチ)の指示であることはアメリカン・フットボールを知っている人には『自明』らしい。選手が単独であのようなプレーをすることは「絶対」に有り得ない、という。にもかかわらず当の監督はそれを認めようとしない、それならと被害者の保護者が「被害届」を提出して受理された。今後警察の捜査で真実が明かされるだろう。
 これに関して報道の伝えるところでは、当該の反則をした選手に対する同情論や救済を求める世論が優勢なようだが、それはどうだろうか?かの監督は日大で絶大な権力を有していてコーチはおろか大学の関係者ですら注意できない状況で一選手が彼の命令に反旗を翻すなど到底不可能事らしい。ということで、彼の反則を「いたしかたない行為」として「寛恕(あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと)」しようという考え方が世間で広がっているがたとえ世間が恕(ゆる)したとしても彼、反則を犯した選手は一生後悔しつづけることはまちがいない。何故なら彼は「決して行ってはいけない、アメフト選手なら決しておかしてはならない」『反則』を行ったのであり、そのことは彼が一番わかっていることなのだ。とても監督に逆らえないチーム事情があったことはチームメイトも世間も理解してくれるにちがいない。それでも「なぜ監督に従ってしまったのか?」という自責の念は一生彼を苦しめるにちがいない。「どうして俺はこんな卑怯なことをしてしまったのだろうか」という「磔刑(たっけい)の重み」に一生彼は苦しめられるだろう。
 近畿財務局の職員が「文書改竄」を命じれられて、改竄して、自殺してしまったことがあった。彼も抗い難い状況の中で「命令」に背いて、命令を拒絶できなくて改竄せざるをえず、しかしその行為の誤りの「重さ」に耐え切れずに自殺してしまった。
 戦後これまで何度同様の事件があったことか。その都度、今回と同じように「命令権者」は非難されたが「実行者」は「寛恕」されて同情されて、許されたり減刑が認められてきた。そして組織の改変が叫ばれたが組織はほとんど元型のまま今日に至っている。
 自殺するくらいなら、組織を「離反」する道もあったはずだ。命令を「拒絶」して役所(会社)を辞める覚悟で臨むこともできたはずだ。
 たとえば近畿財務局の職員なら役所を辞職してメディアに情報を持ち込んで「不正」を明らかにする、そしてメディアやNPOで「公益通報者」を保護する運動を推進するような道を開拓する、そんな生き方もあったはずだ。そうでなくとも、彼の勇気ある行動が報じられれば救いの手を差しのべる人がいないとも限らない。今回の日大アメフト部員でも、監督の不法な命令を拒んでホサれて、退部して、それが報道で問題提起につながって「日大アメフト部」の浄化が実現できたかもしれない。そうでなくとも、アメフト部のOBは多数存在している。彼の窮状を見かねて救済してくれるOBは必ず有るにちがいない。
 
 近畿財務局員も日大アメフトの選手も、追い込まれて客観的に事態を見る余裕をなくして卑劣な行為に及んだ。今ある自分、それ以外に自らの生きる道が見出せない状況に陥っていた。でも、彼らの日頃の生き様は必ず見てくれている人が居て、そんな人たちは彼らを放っておくはずがない。必ず「もうひとつの道」は開けるものだ。勇気をもって、『正々堂々』と自分の信じる道を選択すべきなのだ。『卑怯者』にならない、『恥』を知る生き方、それができる日本であってほしいではないか。
 
 忖度して、国民のためでなく時の権力者に阿る役人達。少数意見を平気で無視して一部の人の利益に奉仕する政治家。こんな人たちが大手を振っている時代。
 今はまさに『卑怯者の時代』だ。でも、そんなことが罷り通る時代はすぐに終わる。その一歩はまず、わたしが、あなたが踏み出さなければはじまらない、「勇気ある一歩」を。今回の事件が正しいかたちで終息して『正々堂々』の時代になって欲しい。
 
 中途半端な同情だけでは世の中を「もとから変える」ことはできない。
 
 

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