2018年5月7日月曜日

あるアイドルの場合

 人気アイドルグループTのYメンバーが女子高生に犯した「淫行」の報道が連日マスコミをにぎわしている。結局起訴猶予になったが事の重大さから「無期限謹慎」の処罰を彼は科せられ。J事務所にはSというトップグループがありTは長年ナンバーツーの位置に甘んじてきたが昨年Sが事実上解散しやっとトップに登りつめ、又折りしも来年が結成25周年を迎えてその記念ツアーをスタートさせようとした時期だけに、他のメンバーにとっては悔やんでも悔やみきれない「無念」極まる事件であったに違いない。「何をやっているんだ」という思いだったろうし長年の「盟友」だっただけに一切知らされていなかった「仕打」は『裏切り』と感じたとしても無理はない。
 ニュースショウの伝えるところでは、サーフィンが好きで早朝5時半に起きて2時間先の湘南でサーフィンを楽しみそのあと仕事場に行って仕事をこなすという毎日を過していたというが、子育て真っ最中の奥さんにとってはたまったものではなかったろう。いわば「育児放棄」して自分の趣味に没頭していたのだから離婚されても致し方ない振舞いであり、このへんに彼の『幼さ』がうかがえる。
 離婚が影響してか酒におぼれ肝臓を悪くして入院していたその退院の日に焼酎一本を呑み泥酔して女性を呼び出した、しかも最も扱いやすい「女子高生」を選んだところにも『幼さ』と『弱さ』そして『ずるさ』を感じる。他のメンバーが『裏切り』と語らざるを得なかったのも彼のそんな一面を知ったからであり、四半世紀にわたる「盟友」関係の中で彼のそうした弱さを見出せなかったこと、そしてそれを「糾(ただ)して」やれなかった自分達の「無力さ」への『悔恨』も強くあったに違いない。
 最も気の毒なのは離婚した妻やこどもたちで、慰謝料なり養育費は彼がグループ活動することを前提にしているだろうから芸能活動ができなくなれば決められた金額は支払えなくなり、生活レベルを維持することは当然のことながら困難になるわけで、父親としての「無自覚さ」「無責任さ」は罪深い。
 
 ところで彼は「の法則」という教育情報バラエティー番組MCを務めていた。中高生や10代、特に女子高生が興味を持っている話題をリサーチしてテーマごとにランキングを作成そのランキングを基にスタジオに集まった主に中高生大学生がトークを繰り広げるという番組で、彼は年長者でもあったから指導的教育的立場から道徳(倫理)的言辞を弄していたにちがいない。ここに「道徳」の『教科』としての決定的な『不適格』さをみる。
 
 道徳教育の教科化ついては先日NHKで、先行して「教科としての道徳」を実践している学校を取材したドキュメントを放送していたが、「問題点」が鮮明に浮かび上がっていた。
 例示された道徳項目のひとつは「無償の愛」でこんな内容だった。ある日子どもがお母さんに請求書を提出する。お使い…30円、お掃除…20円などと列挙されたものだったがお母さんはだまって子どもの要求にこたえる。その数日後、今度はお母さんから子どもに請求書が渡される。そこには、お料理、洗濯、掃除などとお母さんの日頃の仕事が数多く書かれていたが料金はみな『ゼロ』。要するにお母さんの子どもや家族のための行為=仕事は「無償の愛」だということを分からせようとする教科書の内容であり、授業の進め方もその方向性に沿って進められる。ほとんどの子どもたちは先生の思惑通りに討論するのだが中にひとり「お母さんもいくらかはお金をもらってもいいと思う」という生徒がでてくる。そうでないとお母さんがかわいそうだから、というのが彼の言い分だが同調する子供は無く彼はさらし者になって涙ぐむ。先生は彼に手助けしてやることはできず、授業が終わってから彼をなぐさめるくらいしかできない。卒業したばかりの未熟な彼女には「道徳」という教科は「難度」が高いことを画面は訴えていた。
 もうひとつは「ルールを守ることの大切さ」を教える内容だった。少年野球の一場面。攻撃チームの監督がチャンスを広げるために打者の少年に「バント」を命じる。ところが彼はチャンスボールが来たのでヒッティングしてそれがヒットになってチームは勝利する。試合後監督は「監督の指令に従うのがルール。試合には勝ったけれでもルールを守らないのは悪いことだ」と少年を諭す。授業はこの少年のとった行為と「ルールを守る」という「取り決め」の大切さについて討論が交わされる。勿論結果は教科書通り「ルールを守ることの大切さ」を確認、納得して授業は終わる。野球のルールと社会の法律のようなルールとはちがうのではないか、という疑問を抱く子どもは出ることもなく。
 一見この授業は成功したようにうつる。しかし問題点が二つある。このルールが子どもたちの『同意』を得ているかどうかという点、もうひとつは「多数決の善悪」を検討していない点だ。
 子供たちは学校に入っていくつもの「ルール」を『押し付けられる』。最近の例で言えば「茶髪禁止」など。ところがこれらの「校則」と呼ばれるものは以前から定められているもので、新しく入ってきた生徒達には『選択』の余地は無く「守らなくてはならないもの」として与えられる。しかしルールというものはそれが適用される構成員の「同意」のもとに実行されるべきである、直接的であろうと議員を選挙で選ぶという間接的な形であっても。これが「民主主義の原則」であるはずだ。ところが「学校」ではこの原則が適用されない。校則を生徒会などで新入生の同意を取り付けて、そういう過程を経て生徒達に守らせている学校を私はしらない。いろいろ校則に関して問題や事件が起こっているのは「民主主義のルール」に則っていないからだという認識が社会的に浸透していないことが残念でならない。
 「多数決の善悪」については最近の政治家や官僚の引き起こす事件の報道で子どもたちの多くが疑問を持っていることだと思う。事件や虚偽答弁や強弁が結局「多数(決)」の論理で推し進めれれて、事実や真実がうやむやの内に葬り去られていることに賢明な子どもたちは気づいている。民主主義というものが「少数者の意見」をどのように取り込んでいくか、それを理解し踏まえた上で、多数の意見が修正され構成員の納得のいく形でルールや法律が定められていく。それが本当の「民主主義」だということを子どもたちに教えないと、民主主義を理解したことにならない。多分、社会科の授業ではそう教えているはずだが「道徳」の時間ではその過程が省かれている。これは大問題だ。
 
 授業を見ていて最も疑問に思ったことは「教科書が劣悪」だということだった。教科書ライターが書いた文章だろうが「悪文」すぎる、感動がどこにもない。価値観を得たり、教訓を受け止めたりすることを経験してきたこれまでを思い返してみると、必ず感動があった。他人の説教やハウツーものの本から得たものは結局頭に残らないし当然のことながらその「徳目」が自身の「価値観」に転換したことは無い。芥川の『蜘蛛の糸』や太宰の『走れメロス』は名作・名文であったからこそ「利己心の戒め」や「友情と信頼」という『倫理』がスーっと心に沁みこんで人生の幾つかの場面で感動と共に甦ったのであって、道徳の教科書のような「悪文」で「教えられて」も『人生の糧』として身に付くとは到底思えない。
 
 国語もそうだし英語でも社会でも、あらゆる教科で「道徳(項目)」に関連する部分を含んでいる。検定教科書というような形でなく、すべての教科をすべての教師が、総合的に精査して、学校独自の「道徳」を形づくる。その方がきっと子どもたちの『学び』につながるし道徳を身に付けることもできると思う。
 「教科道徳」は見直すべきだしそれは早いほうがいい。
 
 
 
 
 
 
 

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