すぐれた文学作品は一瞬にして人生に光を当ててくれることがある。フランスの女流作家ボーヴォワールが1967年に著した『モスクワの誤解』(井上たか子訳2018年3月人文書院刊)はそんな名作のひとつで、七十七歳という年齢に到ってもいまだに分からない「老い」ということ、「老いた夫婦」というものを鮮明に自覚させてくれた。
もはや女性の気を引こうとは思っていなかった。だが、少なくとも、彼を見て、以前は女性に好かれていただろうなと思ってもらえる程度のことは願っていた。完全に性的なものを失った存在にはならないこと。
この文は今の自分の生活律を見事に言い当ててくれて好きな一節である。反対に女性の老いを表現したことばは意外に切ないものになっている。
その青年は、若くて魅力的な一人の男だった。だが、彼にとって彼女は無性の存在であり、八十歳の老女と同じだった。彼女が彼のあの視線から立ち直ることはけっしてなかった。彼女はもはや自分の身体と同体ではなくなったのだ。それは見知らぬ抜け殻、悲しい偽装にすぎなかった。(略)ビロードの様な二つの瞳が無関心に彼女から逸れたときのイメージ。それ以来、ニコルはベッドの中でも氷のように冷たいままだった。少しは自分自身を愛せなければ、抱かれたいとは思えない。
「少しは自分自身を愛せなければ…」、このことばは女性に限らず男性にも必要な心で、加えてお互いが相手を認め合うところがないと毎日が死んだような繰り返しになってしまう。それをボーヴォワールはこう描く。「夫婦になったからそれを続けるような夫婦…」「ある年齢を過ぎて、実際に分かれることもできなくて、仕方なく、一緒に暮らしているような人たちのあの悲しい老い…」「彼らの会話は、どこかうまく動かなくなっていた。お互いに、相手の言うことを多かれ少なかれ歪めて受け取った。こうした状態から抜け出すことはできないのだろうか。」
物語はこんな内容になっている。
アンドレとニコルはパリに住む元高校教師。定年退職して、二人の息子であるフィリップが自立して、時間がタップリできたふたりはモスクワへ一ヶ月のバカンスに出かける。モスクワにはアンドレの先妻との間に生まれたマーシャがロシア人と結婚して暮らしている。出版社に勤めるマーシャの案内でモスクワを巡る二人の心の動きを交互に二人の視点を入れ替えながら、ボーヴォアールは巧みに描く。
モスクワに飽きたニコルは早く次の火曜日(予定通りモスクワを経つ日)がくることを願っていた。ところが突然その先の日曜日に30キロほど先にある別荘に行くことを告げられる。アンドレはニコルに相談して決めたという。いつだったかの豪華な晩餐でふたりが心地よく酔って帰ったホテルで相談してニコルも同意したという。ニコルはそれを覚えていない。
こうして諍いを始めた二人の心理はどんどん抜き差しならない深みに落ち込んでいく。
ひとつの言葉がアンドレとの絆を断ち切るのに一分とかからなかった。わたしたちはお互いにしっかりと結びついているなどとどうして思うことができたのかしら。一緒に過した過去から考えて、彼女は自分が彼に執着しているのと同じくらい彼も彼女に執着していると信じていた。しかし、人は変わる。彼は変わったのだ。彼が嘘をついたこと、最悪なことはそのことではなかった。彼は、叱られるのが怖い子どものように、ふがいなく嘘をついたのだ。最悪なのは、彼が彼女の気持ちを考慮しないで、マーシャと二人で決めたことだ。彼女のことはまったく忘れていたのだ。彼女の考えを聞くことはおろか、知らせもしなかった。事態を正面から見る勇気をもたなければ。この三週間、彼がわたしたちが差し向かいで過せるような心配りを一切しようとしなかった。彼の微笑み、彼の優しさはすべてマーシャに向けられていた。(略)彼はここにいることが気に入っていて、わたしも同じように気に入っていると信じているのだ。それはもう愛情なんかじゃない、わたしはひとつの習慣にすぎないのだわ。(略)彼はいつもそうだった。自分が幸せなとき、彼女も幸せなはずだと思っている。実際には、二人の生活にはほんとうの意味での均衡はなかった。アンドレは、まさに、彼が望むものを手にしていた。(略)それに対してニコルは、若い頃のあらゆる願望を、彼のために諦めた。彼はそのことをわかろうとしたことはなかった。(略)彼は彼女を仕事から引き離した。彼女の手中には何もなく、この世で彼以外には何もなく、突然、その彼も失ったのだ。怒りのもつ恐ろしい矛盾、それは愛ゆえに生まれ、愛を殺してしまう。
彼は歳をとることの唯一の代償として、フィリップが結婚し、ニコルも退職して、彼女のすべては彼のものになるだろうと期待していた。しかし、彼女が彼を愛していないとすれば、彼だけでは満たされていないとすれば、頑固に恨み続けているとすれば、二人だけで暮らすという夢も危ういものになる。ある年齢を過ぎて、実際に分かれることもできなくて、仕方なく、一緒に暮らしているような人たちのあの悲しい老いを、彼らもまた生きることになるのだろうか。
永い間生活を共にして子を生(な)しやっと二人だけの時間を手に入れた老いた夫婦にはいつ爆発してもおかしくない「諍いの種の蓄積」がある。それはほんのささいな言葉、しぐさで噴き出してしまう。この小説のふたりは互いに相手の愛を『独占』したい、できると思っていて、それを裏切られて諍ってしまった。そしてこうした『諍い』はわれわれの間でいつ起っても不思議はないのだ。
破綻寸前までいった二人だったがやがて和解する。
「あなたに言わなかったこと、そして大切なことがひとつあるわ。モスクワに来たときから、わたし、急に老いを感じたの。わたしには生きる時間がほんのわずかしか残っていないことを実感したのよ。そのために、少しでもうまくいかないことがあると我慢できなかった。あなたはご自分の年齢を感じていないけれど、わたしは感じるの」「えっ!感じているよ」と彼は言った。「しょっちゅう、そのことを考えているよ」「ほんとう?そんなこと聞いたことがないわ」「きみを悲しませないためだよ。きみだって、言ったことはないじゃないか」(略)「話し合うことができて、とても幸運だわ」と彼女は言った。言葉を用いることのできないカップルの場合、誤解は雪だるま式に大きくなって、彼らの間のすべてを駄目にしてしまうのだ。
老いと老いた夫婦の「危うい均衡」を描いたこの小説だが、しかし『老い』は決して絶望的なものではない。ボーヴォワールはこう力づけてくれている。
老いるとは自分が豊かになることだという!多くの人がそう思っている。歳月はワインにブーケを、家具に古色を与え、人に経験と英知を与える。一瞬一瞬は次に続く一瞬によって包み込まれ、裏付けられ、より完成した未来を準備する。失敗さえもが、最後には修復されるだろう。「沈黙の粒子の一つ一つが成熟した実となる機会である(ポール・ヴァレリーの詩「棕櫚」の一節)」。
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