2020年11月23日月曜日

日本とドイツ

  アメリカ大統領選にようやく決着がついたようで次期大統領に決まったバイデン氏と菅総理大臣は早速電話会談をしました。日米同盟の強化で一致し、尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲であることを確認したと誇らし気に、若干安堵の表情を浮かべながら記者団に語っています。アメリカが尖閣への他国の侵犯、侵略、攻撃に対して防衛義務を負うことをバイデン氏が認識していることが分かったということであり、北朝鮮による拉致問題に関しても解決に向けて協力を要請したとも伝えられています。

 

 この報道に接してまず感じた違和感は「日米同盟」ということばでした。日米同盟というのは「日米軍事同盟」を表わしているのでしょう。しかしわが国は憲法で軍隊の不保持を宣言しているわけで、それにもかかわらず堂々と「軍事同盟の強化」と公言する神経は完全に『護憲』という観念が今の政治家には意識にないということを図らずも明らかにしています。戦後の政治家はこの点に関して実に用心深く少なくとも昭和の政治家は「日米安保条約」が「軍事同盟」であることをあからさまに表現することはなかった(と記憶しています)。1950年に朝鮮戦争が勃発して、それまで戦前の軍事体制の復活に極端に防護的であったアメリカが方向転換して東西冷戦の東アジアの橋頭堡として日本を設えるべく再軍備を強制したき、吉田首相をはじめ日本の政治家たちは戦後復興を最優先して軍事負担を最小限に抑えるべく抵抗しました。その後の保守政権も憲法との兼ね合いとアジア諸国への戦争責任の贖罪の意味も込めて「日米軍事同盟」という言葉の採用に関しては最大の神経を使って対応してきました。それがいつの間にか平気で、日常用語として「日米同盟」をちゅうちょなく使用するように政治家はなっているのです。

 さらに日中間の「尖閣問題」も日朝の「拉致問題」も、それぞれがわが国の外交問題であるにもかかわらず今の政治家たちは問題解決を我が手で行うという気概を忘れて、アメリカの助力、というかアメリカの後ろ盾を頼りにして解決することを当然と考えているように受け取れる言動に終始しています。確かに難問です。中国も北朝鮮も軍事力を有しないわが国を「交渉相手」として見なしていないような対応を示します。しかし少なくとも小泉首相が電撃訪朝で示した「当事者意識」は金正日に緊張感をもって認識させる効果をもたらしたはずです。それがいつの間にか六カ国協議の一員という立場に後退し、トランプ大統領時代に至って、わが国は北朝鮮からも中国からも「当事者」として認識されることさえもなくなってアメリカの「核の傘」に身をひそませた『傀儡』であるかのように「見下ろされる」存在になり果ててしまったのです。

 

 そりゃぁそうでしょう。今の日米関係をよその国から見れば『属国』と見られても仕方がない関係になり下がったまま75年が経っているのですから。

 首都の上空をわが国の飛行機が自由に飛べない屈辱に、それに疑問さえも感じずにいるのが正常な「独立国」の国民意識といえるでしょうか。首都の上空は別名「横田ラプコン」と呼ばれる「横田侵入管制区」になっており1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な空域の航空管制は横田基地で行われているのです。ということはアメリカ軍が制空権を有していることになります。従ってわが国の航空機は最短距離で成田なり羽田なりの空港に発着することはできず1都8県を避けるような航路を取らざるを得ないという屈辱、非合理を強いられていることになっているのです。

 さらに基地に駐留しているアメリカ兵らの犯罪を裁く「第一次裁判権」は米軍が有するという日米安全保障条約に関する地位協定を1960年以来わが国は唯々諾々と受容しつづけてきているのです。沖縄で繰り返される少女強姦や市民への暴行事件に関して到底受け入れ難い屈辱的な判決を強制されてきています。

 これは明らかに『不平等条約』です。戦後75年経って未だにこのような「不平等」に対して何らその『改正』に向けた実効的な政治的交渉が行われずに来ていることに、弱腰な政治家たちの姿勢に憤りを感じます。また国民も沖縄で度々起こった暴行に対する『反米闘争』を、沖縄だけの問題として当事者意識をもって対応してこなかったことに憤らずにおれません。

 

 明治の人たちは維新時、圧倒的な武力差の下、締結を強制されたアメリカなど5ケ国との不平等な通商修好条約の改正を一日も早く勝ち取ろうと臥薪嘗胆の労を重ね、苦節半世紀の明治44年(1911)改正を果たしました。彼らの不屈の改正への情熱と雪辱の心意気を慮(おもんばか)る時、頭がさがると同時に、今の我々の不甲斐なさに断腸の口惜しさを感じます。敗戦という絶望的な状況からの逸早い復興を達成しなければならないという政治情勢は維新の元勲たちの置かれた立場とまったく同じだったと言えるでしょう。ですから屈辱的な講和条約や安全保障条約をのまざるを得なかったことは十分理解できます。問題はその先です。経済復興は予想以上に早く軌道に乗り昭和31年(1956)の経済白書に「もはや『戦後』ではない」と誇らしく宣言するに至ります。そして昭和60年代から70年代の高度経済成長期を経て世界第2位の経済大国にまで昇り詰めることになるのです。明治の日本が不平等条約改正を勝ち遂げた、それと同じ敗戦の五十年後にわが国は、日清日露の戦争に勝って列強に「一流国家」として認めさせたと同じ、経済先進国として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称せられるまでに世界に認められたのです。「不平等条約改正」の基盤は調(ととの)っていたのです。

 しかし戦後の日本は動きませんでした。

 

 一方の敗戦国・ドイツは「東西分裂」という過酷な「冷戦の桎梏」を乗り越え今や「ヨーロッパ融和の旗手」として世界的なリーダーシップを発揮しています。

 この差は一体どこから生まれたのでしょうか。

 

 まちがいなく言えることは、人類史上類をみない「ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺」という十字架を負った戦後ドイツは『痛哭(つうこく)』の「戦争責任」を経験しなければならなかったということです。ふたつの世界戦争の敗戦と仏独を中心とした歴史的相克を『昇華(しょうか)』した「持続可能な平和体制」を構築しなければならないという「歴史的贖罪感」がドイツ国民にはあったのに反して、わが日本は「戦争責任」と「贖罪」がまったく『不徹底』だったのです。いまだに先の戦争は、アジア諸国の欧米先進国からの「解放戦争」であったと『強弁』する「歴史修正主義」がまかり通っているのですから彼我の「戦争責任」に対する姿勢の差は歴然としています。

 

 来年には「核兵器禁止条約」が発効します。「唯一の戦争被爆国」の日本が世界に向かってどのような「非核化戦略」を提示するか、世界が注目しています。

 

 

 

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