2020年11月9日月曜日

二大政党制はもう古い

 年齢を取るとあれこれ考えるのが面倒になって、えいっ、やっ!とカンでやってしまうことが多くなってしまいます。随分乱暴な思考態度(?)ですがこれが案外うまくいって時にはものの本質をついていることもあるのですからおもしろいのです。

 

 最近のえいっ、やっ!で結論を得たのは「政治は権力闘争である」というアカの染みついた俗論です。若いころは「人を豊かにする」ことが政治の本質であるとか世界平和の実現が国連の使命であるとか考えていましたが、八十年近く生きてきた結論は政治の本質は「権力闘争」だということになってしまいました。とくに「東西冷戦」が終結して以降はこの傾向が露(あらわ)になってきたように思います。冷戦時代には「自由陣営の牙城を守る」という大きなタガが権力闘争を制限していましたから、権力や資本の野放図な暴走を許しませんでした。しかし米国一強になって、自由主義的資本主義が唯一の価値基準になってしまうとトランプ氏のようなだれはばかることのない「自己の権力拡大」だけを追求する人がでてくるようになったのです。もし今彼がしているようなことを冷戦時代にしていたら同盟国から「そんなことをしていたら東側につけ込む隙を与えてしまう」と警告されて自国の団結を強めるような政策に転換せざるを得なかったにちがいありません。わが国でもそうで、安倍一強(菅一強も?)のもと「森・加計・さくら」のように白を切る一辺倒でなんら説明責任を果たさない無責任極まりない政権運営をすれば野党のみならず自民党内部からも「国を分断するな」と抑制がかかって「国内融和」と「団結」が最優先されたはずです。少なくとも「東(西)陣営の圧力」にたいしてだけは国内(同盟国)団結してこれに当たらなければならないという「自制」が働いたのですが今はそれがないから「権力の暴走」が世界中のあらゆる国で横行しているのです。ロシアの「プーチン永久政権」も中国の「習体制終身化」も同じことです。

 

 では権力闘争とはどういうものでしょうか。既得権擁護派(保守派)と反擁護派(リベラル派)の勢力争いが最も一般的な権力闘争のかたちでしょう。既得権は富や権力の蓄積となって表れますから反擁護派は富の再分配や権力の分散を要求します。企業から個人へ、豊かな人から貧しい人への再分配が権力闘争の主戦場でした。ところがここにきて既得権の範囲が多様化してきたのです。そのひとつは「環境」でありさらに「エネルギー」も既得権の対象として浮揚してきましたし「性―LGBT]も対象とされています。

 これによってどのような変化が起こったのでしょうか。「経済=富}だけが権力の淵源であったときは「持つもの」と「持たざるもの」の対立軸だけで政党は存立可能でした。それが二大政党制です。ところが価値の多様化が進展するにしたがって既得権の対象も幅広くなってきてそのどれもこれもを二大政党に収斂することが難しくなってきたのです。経済的に豊かな層でも「環境」に関しては今すぐ「環境保護」しなければならないと考える人と環境よりもやっぱり経済を優先しようという考えの人に分かれるでしょう。エネルギーについても、石油燃料や原子力を主電源と考える層と自然エネルギーを最大化しようという自然エネルギー推進派の人とに分かれます。性に関しても堕胎容認派と断じてそれは許されないと考える立場に分裂しています。LGBTに寛容な人たちと古い道徳観に捉われてどうしても許容できない人も多く存在しています。

 二大政党制ではこの価値の多様化した時代に即応できなくなっているのです。はっきり言って二大政党制は時代遅れなのです。そのことを明確に認識してリーダーシップをとる人が現われてこないからアメリカの大統領選挙は「国民の総意」を捉えられない『不安定』な状況に陥っているのです。

 

 わが国でも同様の状況に陥っています。反自民で細川政権や民主党政権が実現しましたがまたたくうちに崩壊してしまいました。今は自民党一党独裁状況になりはてていますが、これは立憲民主党が相変わらず二大政党制に固執して「政権奪回」などと『幻想』を喚きたてているから閉塞状況から脱却できないのです。立憲民主党の支持層はいくら伸びても「国民の三分の一」以上には拡大しません。一方今の自民党――昭和の自民党のように左も、リベラルの一部も包含していた自民党でなく右傾化した自民党――も国民の半分を囲い込むだけの支持は得ていないことに気づくべきなのです。ひょっとしたら今の自民党に満足している層も「国民の三分の一」くらいかもしれないのです。自民党にも立民党にも不満を抱いている層が三割以上あるという現実をまず直視することです。そして自民党と立民党のあいだに多様な価値観を奉じた幾つかの政党が分立してそれを左右から取り込んだ「不安定なバランス」を保った政権の時代。これが今のわが国を真正に反映した政治体制ではないか、それが「えいっ、やっ!」で私の導いた考えです。

 

 「戦争」についてもこれまでの戦争観と現状を踏まえた戦争観は次元を異にしたものになるはずです。今の世界の為政者たちの「戦争観」は時代遅れなのです。そもそも現代において戦争の「必然性」はどこにあるのでしょうか。領土の拡大と労働力の暴力的増強の必然性を抱えた先進国が存在するでしょうか。

 「戦争」の必然性は主産業が「農業」であった時代には存在しました。なぜなら農業の生産性は領土の広さ(肥沃さ)と投入労働量に比例していたからです。次の「工業化」の時代にも「領土」の重要性はありました。「資源」の確保が必要だったからです。アメリカが中近東に地政学的重要性を認めていたのは「石油資源」を確保するためでした。そのために大戦後「イスラエル」という「人工国」を無理やりでっちあげて中近東の要衝に設え「石油資源確保」の「橋頭堡」としたのです。ところがシェールガス革命が起こって石油と天然ガスの「純輸出国」になった途端、トランプのアメリカは中近東から撤退を始めたのです。「世界の警察」を標榜していたアメリカが世界各国の基地の「駐留経費」の負担増額を駐留国に求めだしたのも、今やアメリカは「領土」も「エネルギー」も必要無くなったからなのです。

 

 領土もエネルギーにも不安のなくなったアメリカが「戦争」を煽るのは今や残されたたった一つの製造業である「軍需産業」を保護するためであり、そのために「戦争」という「幻想」で世界中を被いつくすのです。しかしアメリカ自体は「金融」と「情報」が主産業ですから戦争と兵器の重要性はほとんどなくなっています。トランプ大統領が自国の軍需産業と関係のない軍事費を削減するのは当然のことなのです。

 そのアメリカの軍需産業から中古(最新鋭でない)の兵器を言い値で爆買させられているわが国をアメリカは絶対に手放さないでしょう。こんな「お得意さん」は世界中にいないのですから。

 

 領土拡張の必然性がなく、しかも現在の国際情勢では領土の拡張など許されるはずもないのに、どうして「軍備保持」する必要性があるのでしょうか。軍備が無くなれば戦争の起こる可能性はゼロです。

 

 核兵器禁止条約が来年1月に発効します。これを機会に戦争について根本的に考えてほしいものです。

 

 

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