2020年7月20日月曜日

ニューヨーク大停電とコロナ

 むかし、といってもそんな遠い話ではありません。五十年ほど前、1965年に「ニューヨークの大停電」がありました。11月9日にアメリカとカナダで起こった停電ですが、ニューヨークを中心に被害が大きかったことから「ニューヨーク大停電」などと呼ばれているのですが、2500万人と207,000㎢の地域で12時間電気が供給されない状態になったのです。このことによって大都市が麻痺に陥って大変な被害が発生したのですが、今ここで問題にしようとしているのは「この停電でニューヨークの出生率が大幅に上がった」ということなのです。これはある医師が気づいて新聞などに取り上げられ話題にななりましがその後の調査では出生率の上昇に有意な差はなかったと報告されています。しかし大規模停電と出生率の上昇に関しては他にもいくつかの例があり、1977年のニューヨークの停電、2001年のアメリカ同時多発テロ発生時、2005年のハリケーン、カトリーナがニューオリンズに襲来したときなどに出生率が上がりベビーブームになったことが知られています。ある社会学者は「災害のために人々が結びつきを求め出生率が上がるのだろう」と言っていますが、一方でただの偶然にすぎないと言い捨てる学者もいます。
 コロナ禍のもと「ステイホーム」が叫ばれ、アメリカをはじめとした海外の大規模感染と多数の死亡者の発生はわれわれの心に不安をもたらし「結びつき」を求める気持ちを高めても不思議はありません。それがひょっとして「出生率の上昇」に結びつかないか。テレワークが一般化すれば夫婦と家族の同居時間の拡大につながり、それが出生率の上昇にならないか。コロナが日本の少子化問題の解決に結びつかないか。そんな希望を抱いたとしたら「馬鹿者」呼ばわりされ、不謹慎とそしられるのだろうか、フトそんなことを考えたのです。

 今回のコロナ禍ではマイナスイメージばかりがいわれています、いわく「コロナ離婚」「コロナDV]などなど。しかし、夫の子育て参加が日常化して奥さんが助かった、とか、夫のささやかな思いやりに気づいた、とか、妻の家事振りの思いかけないセンスの良さを知った、とかホームステイが気づかせてくれた家族の良い側面も多くあったのではないでしょうか。
 これまで企業は個人の自由を収奪してきました。会社の拘束時間は一応9時間(執務時間8時間と1時間の休憩)が一般的ですが通勤時間が往復2時間、週1~3回の接待や職場仲間の付き合い、休日の接待や付き合いなどを考慮すれば個人の自由になる時間は1日3時間もないのが実態です。(総務省の「社会生活基本調査」によれば余暇などの3次活動の時間は大体6時間になっていますが、フルタイムで働く一般的な社員の平日の場合はその半分もないでしょう)。正規雇用でフルタイムで働く人にとってそれが当たり前と考えられてきました。しかしテレワークが採用されて通勤時間がなくなって会社に行くのが月に数回になれば、都心の一等地に会社がある必要もなく、など、コロナがもたらす社会の変化は始まったばかりですが、我々の想像をはるかに超える大変革がこれから起こるかもしれません。
 
 コロナについて我々はまだ一割も知っていないのではないでしょうか。それをすっかり知った気になって、「コロナとの共存」「withコロナ下の経済活動」とかいって「以前と同じような」経済社会生活にもどすことを考えていますが、あまりにも無謀なのではないでしょうか。もちろん経済を回していかなければ社会は成立しませんからいつまでも「自粛」をつづけていくわけにはいきませんが、かといって百パーセント「以前と同じ」レベルに復活させることも不可能です。三年か五年のスパンで経済社会活動を元にもどしていく、だから最初は六割くらいから初めて徐々に復活のペースを高める。二年か三年で八割程度復活すれば上々ではないでしょうか。百パーセント元に戻ることはひょっとしたら無理なのかもしれません。
 その程度を復活の上限と考えてコロナ禍を克服しようとするのが、現在われわれが知っているコロナに関する知識から導き出せる限界なのではないでしょうか。
 緊急事態宣言が解除されてから今日まで、誰も、政治家も科学者も、「復活の限度とスピード」について、はっきりと示してくれていません。心ある人は、ワクチンと特効薬が開発されて国民に行き渡るまでこの新型コロナ感染症は終息しないことを理解しています、そのためには早くて三年、これまでの知見に従えば最低でも五年はかかるということは覚悟しています。だから、「コロナ時代の新しい生活様式」を国民は受け入れて、企業は六割程度の企業活動の復活からスタートして徐々に七割、八割と復活の程度を高めていく、百パーセント復活ができるかどうかは分からないけれどもそこを目指して国を挙げて努力していこう。
 
 こうした『見通し』を国民に示すのが「政治家の危機対応」というものですが、現在の政治家はそれができません。そうした不甲斐ない政治家を叱咤するのが「マスコミ」の仕事なのですがマスコミも劣化していますから機能しません。情けないことですが原因は「マスコミの体質」にあります。
 新聞をはじめとしてマスコミの花形は「政治記者」と「社会部記者」です。ですから「できる記者」は政治部と社会部に投入されます。科学と文化担当は二流の男性記者か女性記者が振り当てられてきました。ところが近年に至って地球温暖化にしろ今回のコロナにしろ、科学文化抜きでは対応できない事件・事故がヒン出するようになってきました。この事態に対処するには「科学音痴」「文化音痴」の『花形』男性記者では対応できなくなってきているのです。むしろ女性記者の方に時宜を得た意見をみることが多いのはそうした背景があるのです。
 先日も「令和2年7月豪雨」の熊本・球磨川水系の豪雨災害に関して男性記者上がりのコメンテイターが「川辺川ダムを早急に建設すべきだ」と喚いていましたが、わが国の治水に関して知識のある人なら問題はそんな単純なことでないことは分かっているのです。わが国の河川は「滝のようだ」といったのは明治維新の御雇い技師でしたが、西欧流のダムによる治水は寺田寅彦をはじめ当初から疑問視されていました。滝のような急流が山を削り川底を浚うことによって砂の堆積が西欧の緩やかな川の数倍に及ぶため、設計時想定されていた治水能力がわずか数年で損壊してしまって、最近よくあるように急激な雨量の増大による「緊急放水」の止むなきに至ってしまうのです。何百億円もかけて造られたダムが数年でその機能を喪失してしまったのでは「費用対効果」が疑われるばかりでなく、ダム頼りであったために治水政策そのものが取り返しのつかないことになってしまうのです。
 「脱ダム」はこうした歴史があって、しかも温暖化による自然災害の苛烈化が重なって解決策の模索がつづいているなかで、どう対処していいか誰も確たる指針を提示できないでいる状態なのに、科学音痴の政治畑上がりのコメンテイターが「ダム促進」を叫ぶことによって何十年という科学的知見の検証が水泡に帰する愚がひき起こされようとしているのです。

 わが国マスコミが長年「科学・文化蔑視」できたツケがマスコミの劣化をもたらしていることを嘆かずにはいられません。











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