2013年7月22日月曜日

母親の眼

 いじめによる生徒の自殺が頻発しているが気掛かりなのは「親の存在」が極めて希薄なことだ。報道後子供の名誉回復を願って懸命に努力する姿に心打たれるのは勿論だがそこに至るまでの親や周りの人たちと彼や彼女との交わりや接点がほとんど見えない。
 子供は親の眼、兄弟姉妹の眼から近所の眼、友人の眼に包まれて育ちやがて学校に入って先生の眼、学校の眼に評価されて成人していく。我々の子供の頃は親や近所の存在が学校と同等あるいはそれ以上に大きかったように記憶しているが現在の子供を見つめる眼は以前より少なく、しかも同じような眼になってきているように思うのは私だけだろうか。

 私の小学4年からの担任は女の先生で学校でたばかりの音楽が専攻の方だった。この先生がえらく私の音楽の才能を買ってくださりある時父親に「清英君にヴァイオリンを習わせてあげてくれませんか」と申し出ていただいたことがあった。これに対して父は「鍛冶屋の跡取りですからその必要はありません」とニベもなく断ってしまった。今にして思えばこの短い指ではとてもヴァイオリンの名手にはなれなかったろうから父親の判断は適切だったのだが、当時は残念でならなかった。
 母親も劇的な判断を下したことがあった。幼少の頃から病弱だったが学齢期近くになって小児結核を患った。たまたまペニシリンの日本解禁と重なって事なきを得たがそれで収まらず再発。今度はストレプトマイシンが開発されそれに助けられた。そんなことがあったから小学校に上がってからも体育は見学、運動会もお遊戯くらいしか参加できなかった。そんな虚弱体質の私に母は3年の夏からの水泳の授業に参加を命じたのだ。当然父や周りは反対したがとりわけ溺愛してくれていた祖母は猛反対だった。それまで祖母に口答えすらしたことのなかった母だがこの時ばかりは敢然と自説を通した。今の私の健康はこの水泳の授業から始まったと言っても過言ではないから母の決断は私にとって偉業であった。

 私の幼年期を例にとったが昔はどの家庭も似たようなものだったのではないか。父親はまだその頃残骸のあった「家」の論理を色濃く帯びた「父の威厳」を示し、母親はめったに我を見せなかったがここという時には「母性」を貫いたように思う。
 戦後これまでの歴史は「家の崩壊と核家族化の加速」であったから私の幼年期をそのまま当てはめることはできないが、父親の影響力は極度に衰えた。同時に母親の父親化も進行して結局子供にとって「母親の眼」が弱まったように感じる。そしてすべての眼が「学校の眼」に収斂しているのではないか。子供の可能性は多様であるにもかかわらず「価値基準の幅」が極めて狭いために進路が「単線化」してしまい、そのことが『子供の逃げ場』を奪い取り『究極の選択』に走らせるのではないか。

 「いい学校へ行っていい会社に入る」というモデルはもう通用しない。ダイバーシティー(多様性)が企業成長の要である、などとお題目としては叫ばれながら一向に「男性中心の社会システム」に変化の兆しが見られないし女性の能力は「活用」のレベルで停滞したままでとても協働までは進んでいない。今最も必要なのは「母親の眼」だと思う。『母親がシンボル化して示すのは、無条件の愛であり、私は愛されているのだという経験、しかも、私が素直で行儀がよく、役に立つからというのではなく、母親の子どもであり、母親の愛と庇護を必要としているからこそ愛されているのだという経験である。(フロム著「愛と性と母権制」より)』という功利や効率性とは別次元の眼差し=価値観が求められているのであり、そのことが取りも直さず社会の活性化につながるのだということに気づくべきである。

 学歴が母性を弱めたとすれば、皮肉なことである。

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