2010年8月23日月曜日

白鳥の妻

 俳人の森澄雄さんが亡くなった。余りにもポピュラーだが「除夜の妻/白鳥のごと/湯浴(ゆあ)みおり」が好きだった。ご冥福をお祈りする。

 その訃報を報じた同じ新聞の片隅にこんな記事があった。「手押し車を押していた85才の女性を無職の68歳の女性が突き飛ばし約2300円の入った手提げ袋を奪った」というものだが暗澹たる気持ちにさせられた。老いたものが更に老いた弱い者を虐げるという構図は最近問題視されている「高齢者の所在不明事件」と通じるものがある。一体この国はどうなってしまったのだろうか。

 最近「何もかも/無かった時代/情けあり」という川柳を読んだ。上の森さんの俳句にもこんな背景がある。昭和29年教師として厳しい生活にあった森さんは武蔵野の片隅の板敷き6畳一間に親子5人で暮らしていた。忙しく1年を過ごした大晦日の夜、子ども達の寝静まったあと土間に据えてある風呂で湯を浴びている妻を「白鳥のごと」と言いとめた妻恋いの思いが貧しさを全く感じさせないロマンティックな句に仕立てている。

 戦後の貧しさを知っている我々から見れば今は豊かな時代と言える。それなのに飢餓感や焦燥感に苛まれるのは何故だろう。物質的には豊かだが精神的に貧しい時代と皆がステロタイプ的に言うが、そのような類型的な精神論でなく本質的に考えてみる必要があるのではないか。

 人間、生まれて育まれて生きていくのに必要なものはそんなに多くない。戦後の貧しい時余り不満を感じなかったのは皆が同じように貧しく貧しいなりに生きていけたからだと思う。ところが今、多くの物質に囲まれているのに満足感がないのは欲しいものがまだあるからだ。もっと多く持っている人、もっといいものを持っている人がいるからに違いない。
 今周囲にある物を『必要』を満たすものと『欲望』を満たすものに分類すれば殆んどが欲望を満たすものではないだろうか。自分の内から求めているのでなく、テレビやインターネットのCMをみて『欲しいと思わされているもの』で満ち溢れている。CMなどで煽られる欲望には限りが無いから満足する時がない。

 そんなものの合計が『GDP(国の豊かさを図るメジャー)』だとしたら『豊かさ』を追い求めることに距離を置いてみる時期を迎えているのかもしれない。

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