2016年10月3日月曜日

人生の真実

 マーサは金の入った封筒をテーブルに置いた。「これでちょっとは助けになるだろ?あんたが今まで面倒をみてやった人たちと話をしたのさ。みんな喜んで協力してくれたよ。大した額じゃないけど、とっておくといい」「施しなんかほしくない。要らないよ」「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。あんたの仕事ぶりに感心してた人はみんな、政府のやり方は間違ってるって言ってた。」
 マーサは七人の娘を生したヴァイン家のゴッド母ちゃん、ラギー・アニーは地域の1200人以上の子どもを取り上げた神の手を持った助産婦。ところが政府は産婆を許認可業務にしたためにアニーは仕事ができなくなる。ボランティアで行っていた教会の清掃も新任の牧師に毛嫌いされて解職され僅かな礼金も貰えなくなって極貧の生活を強いられている。グレアム・ジョイスの『人生の真実』の一コマだが、「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。」という言葉に惹かれた。
 
 最近「生活保護費」や「政務活動費」の不正受給が多い。福島県会津若松市、佐藤勉市議のフィリピン妻の不正受給は二重にも三重にも不正が重なっていて目を覆いたくなる。公僕たる市会議員の妻であるということ、妻は日本語に不案内で夫たる市議が代筆して申請書を書いていたという事実、飲食店に勤務していて収入があったことを隠していたということ、市の職員はひょっとしたら彼女が佐藤市議の妻だという事を知っていて不正を見逃したのではないか、など幾重にも不正が複合しているこの事件は、現在の我国の「病巣」が凝結された事件といえる。
 市議といえば富山市議の政務活動費不正受給も酷い。あれよあれよという間にとうとう11人も不正議員が明るみに出て、40人の議員定員の4分の1が辞職に追い込まれ補欠選挙を行わねばならない事態にまで発展してしまった。
 市会議員はいうまでもなく「公僕」である。「僕」という言葉には「しもべ」という意味があるように「しもべとなって公衆(市民)につくす」のが市会議員―公務員であって、もともとエライ存在ではない。そんなことをいっても、仕事の性質上権力を手にするから自戒も込めて「しもべ」意識を公務員に植え付ける意味合いもあって「公僕」ということばができたに違いない。ところが我国では公務員なり官僚なり議員という存在は、明治以来「権力者」でありつづけ、市民は「お上にやってもらう」気持ちが強く自主独立の精神が欠乏していたから、公務員は「イバリ」つづけてきた。その弊がいまでも根強く残っているから本当の『市民社会』が出来ないでいる。
 
 本来公務員は「公僕」であらねばならず、新渡戸稲造のいう「金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事」でなければならない職務である。何度も引用したがもう一度彼の『武士道』の一節を引いてみよう。
 あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。(略)価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(略)自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである。
 価値を金銭で量定できない職務、ということは、給料以上の仕事をやり権力も持っている、ともいえる。給料の何倍もの予算を執行できるのだから、法律から逸脱しない「公正」と「正義」が求められる仕事でもある。その公務員の不正が蔓延している、一般公務員も、市議県議も、国会議員さえも不正を重ねている。
 
 生活保護費はそもそもはマーサのいう「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。あんたの仕事ぶりに感心してた人」に支給されるものだった。怪我や病気で仕事が出来なくなった人に再起するまでの生活資料を手当てするために、一生懸命働いても世間並みの生活ができない人にその不足分を補うために、生活保護費はあったのだと思う。現在では高齢で仕事が出来なくなって年金が少なくてその不足を補充する「高齢者生活保護費」も多くなってきている。以前は「施しなんかほしくない。要らないよ」という気概をもった人が少なくなかったが今はどうなのだろうか。
 
 「幸せなの?」「いいや、幸せじゃないよ。だけど最近ずっと幸せについて考えてて、こう思うようになってきたんだ。幸せじゃないのは恥でも何でもないって。いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」
 これも『人生の真実』のことばだが、どうも我々は「いつも幸せでありたい」と思いすぎているのではないだろうか。そしてそれがややもすれば「物質的なもの」に偏った「幸せ」であるように思える。幸いわが京都市には僅かな負担で「敬老乗車券」がいただけるようになっている。朝、手作りの弁当と水筒を持って出かけ、半日バスを乗り継いで植物園と美術館へ行って帰ってきても一円も要らない。十分に歩いたから夕食も美味しくいただけて適当な疲労でグッスリと眠れる。年老いた夫婦ふたりの「優雅な一日」ではないか。帰りに図書館で好きな本を借りておけば数日は読書を楽しめる。近くの公園の植栽で季節の移ろいを楽しむのも好し、桂川の土手に座ってぼんやりと雲の流れに目を遊ばせるのもまた好し。こんな時間に急かれない楽しみは年を食わねば味わえない。
 
 「いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」。このことばがお気に入りの最近である。
 
 
 
 
 
 

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